pico_usagi’s blog

つれづれ鑑賞記を引っ越し作業中です!

ノイマイヤー『タチアナ』

オペラはみたことがありませんが、うまく演じられればブラボー間違いなしのクランコ版『オネーギン』。
古の文学少女(笑)にはたまらない、文学バレエです。

クランコ版がそうなのか、は知りませんが、とにかく映像ソフトの乏しいお葱。
前にも書いたけど、シュツットガルトバレエのフリーデマン・フォーゲル君のスバラシイお葱をみた後、時どき復習のように観たいなぁ、と思うのですが。

冬にハンブルグ公演を見に行ったとき、売店でノイマイヤー版のお葱もとい『タチアナ』があったので、ソフト不足の気分を慰めるために購入し、ようやく観ました。
前情報まったくなし、どうみても怪しいジャケット(お葱がスキンヘッド)だったのですが、背に腹は代えられず。
知らなかったのですが、何年か前にNHKのテレビで上演されていたらしい。
2014年の初演らしいです。最近作ですね。

男性ダンサーが一度は演じたいという『オネーギン』を、わざわざ、オネーギンの相手役(ただし、恋は成就しない)タチアナに変えて、どうするんだろう…と思いましたが。
結果、かなり『オネーギン』でした。

『オネーギン』は音楽も聞きたかったのですが…、こちらはオリジナルらしい。
何か聞いたことがあるな~、と思っていたら、『人魚姫』と同じ作曲家らしい。
どおりでテルミン臭い…、と思った。

おおむね、文学作品のオネーギンと同じ流れ。
タチアナの描写は、文学(というか物語の世界)に没頭する妄想少女である部分が立体的に表現されている、とは思うけど、タイトルほど内面描写がされていないな…と思いました。
終始、何かにおびえている感じで、むしろ自分の失恋を最初から予感しているかのよう。

前半はタチアナ主役、の流れではオネーギンの描写は非常に非人間的。
ある意味、「田舎へやってきて退屈している都会のインテリ青年・お葱」を現代的(象徴的)に描写したらああなのかな、と納得はする。
『ベニスに死す』の紅顔の少年・タジオもまた適役だったエドウィン・レヴァゾフ君、スキンヘッドでうって変わって、その非人間感が増幅。
新世代のノイマイヤーに欠かせないキャラクターのようですな。
とても長身らしく、異形感が半端ないです。

後半は、お葱も人間なんだな~、と思うくらいお葱の人間描写が増えて、そういう意味では構成が…もうちょっと整理されたし、という感じ。
個別にみれば、それぞれ良いのですが。

都会的なアイコンとしてのお葱と対照的なのが、レンスキー。
クランコ版ではちょっとだけ出てすぐに死んでしまうレンスキーですが、今回結構出番が多く、オネーギンとの関係で重要な描写が大かった。
し、リアルにイモっ子としての実在感ある描写がよくできていたなぁと。
あの髪型とチェックのシャツには既視感が(笑)。

…とまあ、冗談はさておいて、レンスキー役のアレクサンドル・トルシュは、オネーギンと対照的な純朴さ、人間らしく感情移入しやすいキャラクターがよく表現できていたと思います。
そして実は、馬鹿にしつつもけしてお葱が手に入れることができない、純粋さの象徴でもあるよう。
彼の死の後悔のほうが、タチアナとの関係性よりも深く描かれていた…ような。

そして終幕。
クマさん役から始まって、人のいい夫へと見事昇華する愛すべきキャラ カーステン・ユングと結婚し、侯爵夫人となるタチアナ。
でもね、タチアナにそんなに変化がみえないのよ…。残念。

原作では、すっかりあか抜けて社交界の華となったタチアナを見、彼女を冷淡にあしらった過去を後悔するオネーギン、そして今さら復縁を迫って拒絶される、というところですが。
ここでのみどころはやっぱり、お葱なのですよ。

あー、これ、男子あるあるだなーと思ったところですが…(怖いよ。笑)

なんというか、若い頃はバカにし腐った社交界に、もはや自分のほうが存在感を示すことができなくなっている、馬鹿なオネーギンの末路。
前半とうって変わって、オネーギンの姿はもはや滑稽にみえます。
男子諸君、20代の時に身の丈に合わない高慢に酔っていると、30代に入るときにこうなるよ!てことで(笑)。

↑もはや、タチアナ関係ねえ。

…というわけで、何も『タチアナ』にしなくて、ノイマイヤー版『オネーギン』として練り直してくれないかしら。
ノイマイヤーはあまり女性の内面に興味ないのかな…、何て思ったりもします。