2019-20シーズンはあまり全幕ものをみていないな…、と思い、パリ・オペラ座公演のシーズンも休日がどうなるか不明だったので、チケット手配が遅くなり、C席からしか取れない!という事態に。
ところがここにきて、新コロナVの流行。
遠方の田舎に住んでいるので、人ごみへわざわざ行くのはどうも…、と悩み。
しかしなかなか、中止の案内が出ず。
海外公演だからなかなかそうなのか…、かつ、オペラ座自体もこのシーズンかなりいろいろあったようで…。
直前まで本当に悩みましたが、上野とんぼ返りで腹をくくって、観劇に行ってきました。
お葱自体はなんでこの演目をオペラ座がやるんだろう…、という感じでしたが、どうせみるなら文学物のほうがオペラ座の甲斐もあるというもの。
日程の関係で、選択の余地なくお葱=マチュー・ガニオの回に。
しかし、有名なエトワールがすっかり引退した昨今、ほぼ知らない人ばっかりで、すっかり浦島たろこ気分。
早くからエトワールだったガニオ君はまあいいとして、私の中で若手だったエレオノラ・アバニャートすら引退してたとは…。
唯一知っているドロテ・ジルベールとガニオ君は2大巨頭といったところで、当然ペアなし。
さて。
4階席なのでどうかなー、と思っていたのですが、かろうじて正面だったので、部隊の構成をみるという点では十分。
当たり前だけど、表情はみえません。
(個人的にオペラグラスは苦手なので、矯正視力の裸眼でみるよ)
そうなると、ちょっと華に欠けるダンサーたちのキャラクター見分けが最初ちょっときつい。
オリガがもうちょっとコケットだとよかったんだけど…、衣装のせいもあって、他の群舞と見分けがつかないことも。
タチアナはアマンディーヌ・アルビッソン。特にマドモワゼル時代のタチアナは、あまり性格がはっきりしていなかったかな…。
二人ともあまりキャラが立たなかったので、二人姉妹の性格の違いが、正直、あまりわからなかった。
そしてガニオ。
期待していたのだけれど、期待が高かったせいか、思ったほど…、オネーギンの人格がみえず。
なんとなく、以前薄っすら、ガニオは本当に表現力が高いのかな?、と思った記憶が…。
でも、上から全体を眺めていたおかげで、一つの舞台にいろんな心理描写が仕込まれているという、クランコの良さはわかったかなぁ。
鏡のシーンは、今回しみじみ思ったけど、ここのお葱はタチアナの妄想なわけで、本来のお葱ではない、というところ、このシーンのガニオはよかった。抽象表現のほうが向いているのかな…、と思った次第。
あと、さすがに最終幕はよかった。
タチアナは夫の愛情のおかげですっかり円熟した美しさを身につけた、というのがわかるのと、それに圧倒されるお葱。
そして、最後の寝室のシーンの心理描写のダンス。
わかっていても、大人の葛藤は何度見ても面白いですね~。
ちなみに、今回は行き返りの電車で原作を読みました。
プーシキンの文章は、現代的な小説の体をなしていないし、当時のロシアっぽいところでやたら外国文学との引用?が煩わしく…、現代人にはとても読みにくい(翻訳ですが)のですが、タチアナの最初のラブレターに対するお葱の対応、最後のお葱の手紙をタチアナが読むシーン、この二つはとても興味深かったです。
なんというか、ラブレターに対するお葱の態度は冷酷、という感じではなく、実に常識的で感心なお説教を垂れているのですよ。至極まっとう。
ちなみに、実際的にはタチアナ17歳、お葱22歳なんだそう。当時は女の子からお手紙を出すこと自体、はしたない行為なんだそう。思慮深いと覆っていたタチアナなのに意外。そして時代ですね。
お葱はそんなタチアナの軽はずみを現実的にたしなめているふうにもみえます。
そして最後のタチアナが手紙を読むシーン。
これはクランコの振付よりもっと感動的です。タチアナ、スバラシイ。
「あなたを愛していますが、夫に操を捧げます」と言い切るのは、さすが、神々しくすらあり、ここでは『オネーギン』ではなく『タチアナ』の物語といったほうが良い。
というわけで。
とりとめもないけれど、とりあえず備忘まで。