pico_usagi’s blog

つれづれ鑑賞記を引っ越し作業中です!

映画「アネット」ー1990年代アンファンテリブルとそれから

何かの拍子に、レオス・カラックスの新作が公開されることを知り、また、主役がなぜか気になるアダム・ドライバーということを知り、かつ、県内公開があり、しかも、月曜がサービスデー、というめでたきトリプル+で、「アネット」を見てきました.

 

カラックスは「ポーラX」以来.

気がつけば、このフィルムの主役だった、今お騒がせのフランス人俳優ドパルデューの息子が、知らないうちに若死にしていたという…、かつ、90年代後半のバルカン半島の戦争の暗い影を背負った、何とも言えないフィルムですが.

 

個人的に、20代のヘタレ女子ならばだまくらかせたかもしれませんが、中年女子の今の私にとって、やはりカラックスは永遠のヘタレ男子.

なので、「アネット」も基本、先日のギリアム同様、永遠の「男子」映画だなー、という現在での分かり合えなさを感じた次第.

 

アネットの人形もかなり不気味で、何でこんなレトロ臭い人形を使うんだろう…と思ったけど(いかにもヨーロッパ的アナクロ)、途中、「傀儡」としての寓話的演出なんだなー、と、リアリスムを放棄して戯画として見ることができました.

 

それにしても、アダムは怪優なのか、今回は、ラマンチャのトビー以上に全く心惹かれない人物として現れています.

オペラ歌手が「何度も死ぬ」ことで讃えられる、と、あっけらかんと言ってしまうのが、皮肉屋のコメディアンだからか、はたまたそういう人だからなのか.

コロナ禍の撮影か知りませんが、主要人物はたったの三人(プラス、人形)という構成は、ますます寓話的で功を奏している模様.

 

ちなみに、あれ?っと思ったら、水原希子とか福島リラとか、出ていました.

割とアンチが多いけど、キコさんは良い女優だと思うよ.ガンバッテ.

 

カラックスは、個人的には「汚れた血」以外はあまり・・・という印象(「ボーイ・ミーツ・ガール」もあまり覚えていない)で、どれも煮え切らない自画像が、繰り返し、中年女子には無理.

映画中に出てくる六本木の描写が、とても90年代的だったので、カラックスもまま90年代で止まっているのか・・・・と思い、90年代前半の「アンファンテリブル」と呼ばれた監督たちを、ふと、懐かしく思い出しました.

 

と、売れっ子路線をいったリュック・ベッソンはさておき、ジャン・ジャック・べネックス氏は今年亡くなっていたのですね….しみじみ.

 

↑個人的な思いが交錯して、あまり良い評価が言えませんが、エンタメや滋味滋養だけが映画でない様な気がするし、ある意味斬新な現代ミュージカルとしては一見の価値あり.

まあ、好きかどうかは別として.

 

 

 

 

テリー・ギリアムと「ドン・キホーテ」

久しぶりに?映画を見ました。

GW中につき(例によって、私は関係ないが)、色々無料で観られるものも更新中。

GYAO!で「テリー・ギリアムドン・キホーテ」が公開されていたので、あれ?と思いました。

 

「ロスト・イン・ラマンチャ」で長年のプランが失敗した、のが公開されたのすら、20年ほど前。

そんなぼんやりとした思い出から、えー、できたのー?と思っていたら、主役がアダム・ドライバーだし、最近できたのかーと。

ちょっと狐につままれながら、みることに。

どうでもいいことですが、アダムの妙に長い顔と頭身が、なぜか好きというか…、癖になっている模様(笑)。

 

↑事情を知らない人が楽しめるかどうか、正直、微妙なフィルムではある。

「わー、できたんだー」と思える人が見る映画だなあ、という感じ。

キホーテは兎に角、主役は当初ジョニー・デップが据えられていたことを思うと、今や泥沼離婚訴訟にすっかり汚いオヤジイメージになってしまったデップだと、実際、どんなストーリー想定されていたのか、そっちも気になる.

 

商業フィルムビジネスにすっかり飲み込まれた若いCM監督が、まだピュア?な頃の学生フィルム制作時代に撮影した、スペイン現地の素人を採用してとった「ドン・キホーテを殺した男」の映像に偶然(かしこみか)再会、懐かしく思うも、自分たちの行動が小さな田舎の村を変えてしまったことを知り、また、撮影以降に自身をキホーテと思い込み、「狂人」扱いされてしまった老人とも再会、「サンチョ」と思い込まれて、犯罪も絡みつつ流浪?の旅に巻き込まれ・・・、虚と実入り乱れて進むストーリー.

 

「何かに取り憑かれ」「正気を失う」「男」と「現実」、オリジナルのキホーテ然り、この映画の老人然り、主人公のトビー然り、そして、「呪われた映画」に囚われすぎたギリアム然り、というところですが・・・.

 

でもね。はっきり言って、これは女には理解できない男のロマン、というところで、突き放して見れば全然感情移入も同情もできない映画です。

ちなみに、トビーも俗に塗れた俗っぽさと、ピュアな時代のコントラストがもう少し強く出ていれば・・・、と思うの。

何となく、ただ困惑して意思もなく、変化もなく、ただ老人についていく若者、という感じ。

まあ、現実はドラマティックではなく、そんなものの方がリアルな状況なのかもしれないが。

キホーテ元ハビエルが、サンチョに「お前はいつまで、俺俺俺、なんだ」というところ、結構現実とウツツの肝だったと思うのだけど、一体、トビーにどのくらい響いていたのか分かりにくい。

 

なお、「トビアス」は聖書に出てくる旅の逸話が有名な名前ですが、寓意性のある役名なのかしら?

 

しかし、今は日本の芸能界でmetoo運動のローカル展開が見られる状況ですが、そんな時代にあって、映画中に描かれる女優と監督(あるいは、金のある権力者)の関係性描写が露骨で、映画界自体が男たちの虚、という現状?にもややうんざりします。

 

…と、つまるところ、やはり、この映画は永遠の「ドン・キホーテ」そのもの。

そういう意味では大変よく、本歌取したフィルム。

あとは好きかどうか、というところか。

 

なお、キホーテ=ハビエルは、普通にスペイン人かと思ったら、「未来世紀ブラジル」の主人公の俳優さんだった。

キホーテ役も、ギリアム映画の中では「呪われた」要素(降板続き)だったのだが…、何というか、ギリアム映画においてはある意味、当然の帰結的。まさに「ブラジル」的。

 

映画の原題は「ドン・キホーテを殺した男」で、ラストを言い表したタイトルでもあり、当初からの仕込みでもあり、かつ、「父親殺し」(男の子は父親殺しを経て初めて一人前の男子となる)というマッチョな伝統的思想そのもの、でもある、興味深いフィルムです(笑)。

 

 

 

テリー・ギリアムと「ドン・キホーテ」

久しぶりに?映画を見ました。

GW中につき(例によって、私は関係ないが)、色々無料で観られるものも更新中。

GYAO!で「テリー・ギリアムドン・キホーテ」が公開されていたので、あれ?と思いました。

 

「ロスト・イン・ラマンチャ」で長年のプランが失敗した、のが公開されたのすら、20年ほど前。

そんなぼんやりとした思い出から、えー、できたのー?と思っていたら、主役がアダム・ドライバーだし、最近できたのかーと。

ちょっと狐につままれながら、みることに。

どうでもいいことですが、アダムの妙に長い顔と頭身が、なぜか好きというか…、癖になっている模様(笑)。

 

↑事情を知らない人が楽しめるかどうか、正直、微妙なフィルムではある。

「わー、できたんだー」と思える人が見る映画だなあ、という感じ。

キホーテは兎に角、主役は当初ジョニー・デップが据えられていたことを思うと、今や泥沼離婚訴訟にすっかり汚いオヤジイメージになってしまったデップだと、実際、どんなストーリー想定されていたのか、そっちも気になる.

 

商業フィルムビジネスにすっかり飲み込まれた若いCM監督が、まだピュア?な頃の学生フィルム制作時代に撮影した、スペイン現地の素人を採用してとった「ドン・キホーテを殺した男」の映像に偶然(かしこみか)再会、懐かしく思うも、自分たちの行動が小さな田舎の村を変えてしまったことを知り、また、撮影以降に自身をキホーテと思い込み、「狂人」扱いされてしまった老人とも再会、「サンチョ」と思い込まれて、犯罪も絡みつつ流浪?の旅に巻き込まれ・・・、虚と実入り乱れて進むストーリー.

 

「何かに取り憑かれ」「正気を失う」「男」と「現実」、オリジナルのキホーテ然り、この映画の老人然り、主人公のトビー然り、そして、「呪われた映画」に囚われすぎたギリアム然り、というところですが・・・.

 

でもね。はっきり言って、これは女には理解できない男のロマン、というところで、突き放して見れば全然感情移入も同情もできない映画です。

ちなみに、トビーも俗に塗れた俗っぽさと、ピュアな時代のコントラストがもう少し強く出ていれば・・・、と思うの。

何となく、ただ困惑して意思もなく、変化もなく、ただ老人についていく若者、という感じ。

まあ、現実はドラマティックではなく、そんなものの方がリアルな状況なのかもしれないが。

キホーテ元ハビエルが、サンチョに「お前はいつまで、俺俺俺、なんだ」というところ、結構現実とウツツの肝だったと思うのだけど、一体、トビーにどのくらい響いていたのか分かりにくい。

 

なお、「トビアス」は聖書に出てくる旅の逸話が有名な名前ですが、寓意性のある役名なのかしら?

 

しかし、今は日本の芸能界でmetoo運動のローカル展開が見られる状況ですが、そんな時代にあって、映画中に描かれる女優と監督(あるいは、金のある権力者)の関係性描写が露骨で、映画界自体が男たちの虚、という現状?にもややうんざりします。

 

…と、つまるところ、やはり、この映画は永遠の「ドン・キホーテ」そのもの。

そういう意味では大変よく、本歌取したフィルム。

あとは好きかどうか、というところか。

 

なお、キホーテ=ハビエルは、普通にスペイン人かと思ったら、「未来世紀ブラジル」の主人公の俳優さんだった。

キホーテ役も、ギリアム映画の中では「呪われた」要素(降板続き)だったのだが…、何というか、ギリアム映画においてはある意味、当然の帰結的。まさに「ブラジル」的。

 

映画の原題は「ドン・キホーテを殺した男」で、ラストを言い表したタイトルでもあり、当初からの仕込みでもあり、かつ、「父親殺し」(男の子は父親殺しを経て初めて一人前の男子となる)というマッチョな伝統的思想そのもの、でもある、興味深いフィルムです(笑)。

 

 

 

ダミアン・ハーストほか、展覧会

コロナ禍の私のモットー?は、「今したいことは、今やっておく」。

そんなわけで、展覧会みたり、美味しいものを飲み食いしたり、舞台を見たり、というのは感染状況と睨めっこで虎視眈々とタイミングを測ります。

 

六波のピークが一年前とは違い、なかなかタイミングが難しいところでしたが、ここで一つ、GW前に春のみたい展覧会ツアーに出かけることに。

 

そんなわけで、楽しみにしていたのが「宝石展」。

…結論からいって、がっかりでした。

普段はあまり行かない科学博物館、会場で「博物館にこんなに女性が多いのも珍しいなぁ」とセクハラ?発言している人もいましたが、どちらかというと、私は鉱物が好き。

科学博物館ならではの専門性を、面白く展開してくれていることを期待していたのに・・・。

(あと、国立館ならではの財力ね)

 

まず、驚きや新知見を得る喜びのない展示にがっかり。

「見て」「わかる」展示ではなく、従来の解説が淡々と展開され、淡々と標本が陳列されているだけの展示に、展覧会にする意義があったのか?と思う。

本で十分ではないか…という気がするが、図録も結構、展示そのままでがっかり。

発売が開幕に間に合わなかったという意味がわからない。

(そして、ほぼ後半のジュエリー展示の分量の方が多いのはさらにがっかり)

 

第二に、展示がダサい。

しつこいが、ただの標本展なのか?

科学の解明が与えてくれる驚きを視覚化してほしかったのだけれど、まま、モノ展示。

かつ、これは博物館標本としての標準なのかもしれないけど、化学処理と現物ママの境が素人には分かりにくく、「リアル」感よりどこか「偽物っぽさ」が漂い(原石が発見されるママの状態なのか、再現的な状況複製なのか? 説明がないと、素人には胡散臭く見えます)、不信の目でしか見られなくなり。

 

ちなみに、「ヒカリモノ」の展示のわりに照明がギラギラ一本調子で、見にくかった。

照明デザイナーはつかないの…?

 

第三に、標本のようなぼっぱなし展示の割に、基本撮影OKにしており、その会場オペレーションがひどい。

ただでさえ見難いケース+小さいモノ展示なのに、巨大な望遠カメラを構えながらリュックを背負った人も多く、合間を縫ってみるのが大変苦痛でした。

 

なお、個人的にジュエリー展を楽しめた試しがない(臨場感がないので、感情移入のポイントがない。私にとって建築展なみ)せいもありますが、第5章のとってつけた感が半端なく、今回の展示で博物館が「何を見せたい/理解してもらいたい」のか、その狙いが全く伝わって来ず。これで2000円と図録3000円は高い。

 

 

噂のネギ

 

さて。地方暮らしにとって、昨今の東京展覧会予約制はかなりハードルが高いです。

日帰りのため、都内を縦横することの見通しも立てにくく、不本意?ですが、今回はブロックバスターづくしになりました(笑)。

 

余裕をもって予約するしかないので、朝イチの上野の後に向かったのは午後、六本木の国立新美術館

元皇族マダムの話題でも賑わしい、メトロポリタン美術館展です。

メトは15年ほど前に行った時に見ているはずなのだけれど、当時図録を買っていなくて、コレクションの記憶がほとんどなく・・・、思い返せばすごく観たかったかどうかは不明。

 

展示されていた作品のチョイスのせいか、案外小品が多いのかな…という印象。

同じ名品展でも、2年前のロンドン・ナショナルギャラリー展の方が面白かったなぁ。

唯一印象に残ったレンブラントの「サスキア像」はなぜか絵葉書の写真があまり良くなく、感動が残せず。(買ったけど)

これもこれで2000円は高い。

 

最後に。

時間調整のためにはいったダミアン・ハースト展。

 

ロンドンのスター画家ですが、この時期、日本で「桜」の展覧会をするなんてあざといな…と、当初はナナメに思っていたのですが、結果として、これが一番良かった。

 

広い会場をぐるりと回るだけで、全貌を見たような気にもなれる、という、なんだかなーという展示ではありますが、ピンク・ブルー・黄色・白の色の組み合わせは、なんとなくハーストらしいと思う色相だし、かつ、インタビューが秀逸なのですが、ハーストがなぜこれを描いたのか、ということがいろんな繋がりというか展開をみせてくれます。

 

シンプルだけど、いかようにも、みる人が自由にその人の視点で見ることができ、かつ、新しい視野がひらけてくる驚きがある、体感的な展示。

 

ということで今回唯一、「見たなー」という展覧会体験をくれたもの。

展覧会とは、かくあって欲しいものだとしみじみ思ったツアーでした(笑)。

 

「ハウス・オブ・グッチ」とファッションの夢の90年代

を観ました。

公開前からファッションサイトでかなり押し気味で紹介されていましたが、特にグッチに興味がなく、スルーしていましたが、なんとなく顔が気になるアダム・ドライバーが出ていることを知り、俄然観たくなり。

 

最近はアニメと邦画しかやらなくなった田舎のシネコンでも(ガガ様のお陰か)レイトショーをやっていることがわかり、週末は零度下にならないようだったので、やる気を出して行ってきました。

監督は賛否の振り幅が大きいリドリー・スコット。意外。

 

レンタルどころかネットで映画を見る機会が増えた昨今、このフィルムが大画面の劇場で見るものなのかどうか、正直、わかりませんが、でも少し期待はあったのは、イタリアの美しい風景が見られるもかも、ということ。

コロナ禍の昨今、海外旅行はかなり遠のいているし、でもイタリアはそもそも私の郷愁をものすごく誘うのです。

ハリウッド映画なので登場人物はみんな、英語で喋ってますが、時々、イタリア訛りのような発音を混ぜて、どちらにしろ外国人の私にはすごく効果的に響きました。

そして、そもそもイタリア系のガガ様、そのゴージャスな佇まいはイタリア女にしか見えん。

 

配役もゴージャスで、アダム・ドライバーは70年代といいとこの坊ちゃん風のもっさり感と品のよさが絶妙だし、イタリアン・パパのご愛嬌と強かな経営一族感が怪演ぷりを見せるアル・パチーノ、退廃的な美しさがゴージャスなヴィラにふさわしいジェレミー・アイアンズ、だめ息子怪演が素晴らしいジャレット・レト。

レトは「こんなにふけたのか!」と思ったけど、特殊メイクの賜物だったらしい。ハリウッドのメイク力、ほんとすごいね。でも、それに違和感ないレトもすごい。

そして、ファッション映画らしく、現在はピノー夫人でもあるサルマ・ハエックもジプシー女らしく登場。

…とまあ、名優揃い。

ソフィア・ローレンや、アナ・ウィンターのビミョーなそっくりさんが出てくるのはご愛嬌。

 

ところで、主役はガガさんの演じる、グッチ直系の最後の社長・マウリッツィオを「誘惑した」パトリッツィア(実在)なんだけど、全部見終わった後の感想としては、主人公の役割というか性格づけが今ひとつ曖昧かなーと思いました。

お金持ちのトッポいぼっちゃんを引っ掛けてやる!という思いはそれほど鬼気迫っても見えないし、金銭欲はそれほどがめつくは見えない(むしろ、最後に近いところのマウリの描写の方が、金遣いの荒さ〈ボンボンとはいえ〉が際立つ)し。偽ブランドや「馬鹿にされたグッチ」への怒りは、グッチの直系たちより強かったりするし。

経営(陣)に口を出すのも、ほんの一瞬(アルド一家をはめる一瞬)。

おそらく、月日の経過の描写があんまり明確ではなく、気づいたときに20年くらい経っているので、2人の関係の推移がトートツすぎるのかも。

逃避先が雪降るスイスの山荘、というのがいかにも北イタリアの「華麗なる一族」ですが、そこで(おそらく)旧友に再会したところで、庶民(とはいえ、小企業の社長の娘だから、まずまずでは)出のパトリッツィアとの育った環境の違い(ハイソサエティの教養を欠いた妻)に急に目覚めた、というのが急転直下風。

 

…とまあ、不思議と段々ガガ主役の映画、というよりはグッチ家なるものを見る、というふうになるのがなんとも、だけれど、それはそれで、興味深いフィルムでもあります。

 

実際にマウリが暗殺された当時は「グッチ家の悲劇」というのはそれなりに日本でも有名な話だったので、今回いろんなレビューで「知らなかった」という人が多く、当時すでにもの心つく年頃だった私はかえって驚きました。

90年代は、ジャンニ・ベルサーチの暗殺事件なんかがあって、最後の暗躍期を見せたイタリアン・マフィアとイタリアのビックメゾンの創立者の悲劇が目立った時期。

一方で、トム・フォードの登場のように、新世代のデザイナーが自身のブランドの創立ではなく、老舗メゾンの再生を活発化させたのがこの90年代から2000年頃のファッション界の動きで、サテン・シャツやベルベットのローライズのランウエイでの登場を見た時、個人的には懐かしさと当時の衝撃を思い出して感動。

確かに、緑と赤のリボンや、GGマークに古臭さしか思わなった10代の私が、トム・フォードの「不良ブルジョア」っぽい、新世代のラグジュアリーを見せつけられた時の衝撃といったら、コロナ禍のファスト・ファッション全盛の2020年代にはもう二度と望めなさそう。

あの頃のファッションには、夢があった。

 

と同時に、外国資本のM&Aが描かれていたように、まさにピノー家のような、ファッションが創業者デザイナーの経営を離れ、巨大資本の下の再編に翻弄されていく時代の始まりでもありました。

 

「経営の才能がない」と言われたマウリの描写がやや戯画的でしたが、「グッチの再生のために新しいデザイナーにアルマーニを入れろ」という発言、弁護士(だったと思うけど、いつの間にか経営パートナー)に一蹴されているところが、実は時代を変えるには創業者一族の誇りだけでは難しくなっていた時勢の象徴かしら。

 

「お前はグッチではない」の一言が全て。そしてその終焉。それがこの映画のキモなのかしら。

なので、後半、ガガ様が主演であることを若干忘れてしまいました。だからこそ、映画のタイトルが「ハウス・オブ・グッチ」なのかしら。

 

焦点が定まりにくいですが、細部はとても興味深いお話。

マウリの暗殺がもうちょっと、ファッション界の転換を駄目押ししたふうに描かれていれば、統一感のある面白さがあったかも・・・と思いますが。

 

 

 

 

小早川秋聲について。

東京ステーションギャラリーで小早川秋聲展を見ました。

 

実際に見る前、小早川秋聲は有名な《國之盾》と、どうやら他の明治期風俗画家の記憶がごっちゃになっていたみたいで・・・、実は《國之盾》しか知らなかった画家でした。

 

なので、統一イメージがなかったわけですが、見終わった後も、なんというか、統一イメージが出しにくい作家だなぁ、と思いました。

実際、文展のそれなりの画家だった(らしい)のですが、1995年頃の戦争美術再評価の高まり期まで忘れられた画家だったそうな。

なんというか、あんまり師弟関係から読み解けない。

 

ただ、展覧会は見応えがあり、面白かったです。しかしまあ、振り幅もすごい(笑)。

 

人物描写とか、着彩とか、どうかすると「下手なのか?」と思うこともありますが、これまたどうかするとピッタリはまって、ものすごく「いい」絵だったりして・・・、評価しにくい画家だったんだろうな…とも。

 

《國之盾》で知られるくらいだから従軍画家なんですけれども、なんというか、初期(といっても30代くらいだからそこそこ中年)の作品を見ていると、なるほど、この人は生来のジャーナリスティックな眼の持ち主なんだな〜という気がしました。

 

あまり関係ないかもしれませんが、谷口香嶠の後に山元春挙に師事したそうで、春挙といえば円山派らしいツマンナイ雪松図なんかも描いたりするんだけど、写真を山水画にいち早く取り入れた人でもあり、その鮮烈な影響があったのかなぁ、とも思います。

 

そして、この時代の日本画家にしては珍しく(そして公職もなさそうなのに)、明治末〜大正期にかけてものすごい広い範囲で海外遊学してるなー、と思ったら、比較的裕福な家系らしい。

だから、あんまり画壇のしがらみもなかったのかもしれませんねえ。

ものすごい自由な描写が楽しい紀行画は見もの。そして、偏見かもしれませんが、裕福だからか(笑)、作品によってはものすごく砂子づかいが繊細で緻密で綺麗なんですよ。

 

実際には思ったほど《国之盾》には心は動かなかったのですが、それ以外の戦争画は、情景画、ヒューマニズム、リアリスムそれぞれの観点で沁みる作品が多く…。

 

図録も買いましたが、やはり実物の再現には印刷では限界があり、ぜひ、実物をご覧あれ。

 

ウンベルト・エーコ『プラハの墓場』

2年前、自分がプラハへ行くことが決まった時に、偶然見つけて、テンションを上げるために買った本ですが…、その後しばらく放置。

最近になってようやく読みました。

 

結論から言って、プラハの街はあんまり関係ありません。(笑)

 

最初、構造が分かりにくく、一気に読むことをしなかったので(登場人物を覚えにくい)、かなりしんどかったのですが、腹を括って読み直し、なるべく集中して読むことにしてようやく理解できましたワ。

 

エーコの小説を全て読んだわけではないですが、珍しく現代に近いところを扱っていますが、舞台は19世紀末の、ヨーロッパ。

 

いつも思うんですが、ヨーロッパ小説は(特に19−20世紀初頭)、ヨーロッパの大陸史を知らないと、ほんと読みにくいだろうな〜と思います。

プラハ」も、そういった意味では非常に象徴的。

 

同時期に必要に駆られて原田マハの小説を渋々読んだのですが、エーコと同時に読んでいくと、ほぼ同時代が舞台であっても、前者がいかにヨーロッパを表層的にしか掬い取っていない小説かがよく分かります。

 

全く現代っ子のイタリア人がどう考えているかは知りませんが、おそらく、エーコのような「20世紀」の人にとって、「イタリア」人というのはいない、といわれていることが当てはまるような気がします。

思えば、『薔薇の名前』も中世が舞台ではありますが、同じ目線を感じますね。

「20世紀のイタリア」が生まれる前の、イタリア半島の構図を思い出してみると、伝統的な「フランス」対「ドイツ※現在のドイツではなく神聖ローマ帝国」とヴァティカンという3者構造の、近代目前の総決算、というところ。

よって、主人公の北イタリア人が、イタリア統一運動に向けた急進派の父を遠くに、旧体制派の祖父に押し込められつつ成長し、奇妙な立ち位置でそれぞれの勢力に関与し、現在(老年期)はパリに住みフランス政府に関わる(といいつつ、ドイツ※これはプロイセン新ドイツ、ロシアに関わる)、というような背景も、ものすごく現実的。

 

一方で、ミュシャや19世紀美術で時々知る機会があって、現代の私には理解不能な、この時代の近代なのか前近代なのかよくわからない神秘主義の横行、同時に生まれたての共和主義の危うさ、急成長したジャーナリズムの功罪、などが、とにかくどっと描かれています。

 

はっきりいって主人公は悪人なので、その行動に感情移入するような類の小説にはなっていませんが、それでも、エーコが描きたかったのは、別にご自分のアイデンティティへのノスタルジーではないのは明らか。

エーコの本職が小説家ではなく、やはり「知識人」たるゆえんでしょうかね。

 

はっきりいって、これは現代の物語なのです。

 

「メディア」が近代の紙(週刊誌)から現代のインターネット(電子媒体)に変わっても、その源を左右するのは人間なのですよ。

その源にいる人間が、たとえ、最終的な事件の結果に対する関心がなかろうと、公正でない企みをもっている時、容易に、事件の結果に関与しうる、ということを、読者は読み解くべきなんだろうな〜、と思います。

 

やはり、恐るべし、エーコ