そろそろ年末ですね。
今年は高倉健(呼び捨て)とか、菅原文太が亡くなったりと、戦後のある時代を象徴するスターが相次いで消え、ある意味ひとつの時代が終わったと感じる人も多いことかと思います。
個人的には、二人とも180センチもある長身だったことが一番驚いた(実は映画を観たことがない´д` ;)んですけど。
私的には、同様に今年は1960年代に前衛の若者として活躍していた美術家が相次いで亡くなったなぁ、という印象が強いです。
これもまた、時代の変わり目か´д` ;
東京へ行く用事ができたので、迷っていた赤瀬川原平の展覧会へも寄ることに。
この方も、回顧展が始まる直前に亡くなったばかり。
確か昨年あたりにハイレッドセンターの回顧展をやっていて、ちょうどMOMAの具体回顧展があった昨今、再び注目を集める感のある読売アンデパンダン世代(ただし、アンデパンダンに出品されていた作品すべてが前衛ではないことに注意)。
赤瀬川氏の作品は、日本中の近代以降美術館で必ず目にするせいか、なんだかね、と思ったのですが、あらためて個展でみると、初めて気づくことも以外に多い。
これは同様に、高松次郎の回顧展でもそう思った´д` ;
赤瀬川氏の場合、全活動を振り返れば、案外アンパン共闘の時期やハイレッドセンターの時期に短く、じつはそれ以外の「赤瀬川原平」の活動が圧倒的に続くのよね。
(あたり前ですが´д` ;)
漫画も初めてみましたし、路上観察以外の収集癖、有名?な千円札裁判のパフォーマンス(アクシデント?)性も、今回とてもよくわかったような気がします。
さすがに、小説だけは美術館展示の限界がありますが、これは町田の文学館がなんとかしてくれるでしょう(こちらは未見)。
今回思ったのは、赤瀬川氏は細部観察というか、リアルさ追求の執念というか、一貫したしつこさ(と同時に飽きっぽさ)があるのだなぁ、と。
意外に、造形力も。
関連して町田へ行こうと思ったところ、この勢いで高松次郎を観た方が面白いかも、と東近美へ。
個展だから発見も多いのは上に同じですが、ここではキュレーションも異色。
体感的な「高松次郎の世界」が展示の手法により示されています。
それを抜きにしても、同じ時代の作家たちとの共通する問題意識とはなにか、そのなかでとくにこの作家独自の一貫性とはなにか、考えてみるのは興味深かったです。
早くに亡くなってしまったため、私とは全然交わることのない作家なのですが´д` ;
高松氏は一貫して「隠れている」(はずの)真実を暴こうとし、赤瀬川氏は真実なんてない、と一貫して暴く。
ある意味、正反対だし、一見クールな高松氏のがじつは熱く、ウブっぽい赤瀬川氏はじつはすごく冷めているような。
よく一緒に行動したものだ´д` ;
秋は国宝だ日本美術だ、といっていたような気がしますが、なぜか冬は現代美術ハイシーズン。
他はエルメスと森美に行き、こちらはなぜかアジア・コンテンポラリーが盛り上がっています´д` ;