2年前、自分がプラハへ行くことが決まった時に、偶然見つけて、テンションを上げるために買った本ですが…、その後しばらく放置。
最近になってようやく読みました。
結論から言って、プラハの街はあんまり関係ありません。(笑)
最初、構造が分かりにくく、一気に読むことをしなかったので(登場人物を覚えにくい)、かなりしんどかったのですが、腹を括って読み直し、なるべく集中して読むことにしてようやく理解できましたワ。
エーコの小説を全て読んだわけではないですが、珍しく現代に近いところを扱っていますが、舞台は19世紀末の、ヨーロッパ。
いつも思うんですが、ヨーロッパ小説は(特に19−20世紀初頭)、ヨーロッパの大陸史を知らないと、ほんと読みにくいだろうな〜と思います。
「プラハ」も、そういった意味では非常に象徴的。
同時期に必要に駆られて原田マハの小説を渋々読んだのですが、エーコと同時に読んでいくと、ほぼ同時代が舞台であっても、前者がいかにヨーロッパを表層的にしか掬い取っていない小説かがよく分かります。
全く現代っ子のイタリア人がどう考えているかは知りませんが、おそらく、エーコのような「20世紀」の人にとって、「イタリア」人というのはいない、といわれていることが当てはまるような気がします。
思えば、『薔薇の名前』も中世が舞台ではありますが、同じ目線を感じますね。
「20世紀のイタリア」が生まれる前の、イタリア半島の構図を思い出してみると、伝統的な「フランス」対「ドイツ※現在のドイツではなく神聖ローマ帝国」とヴァティカンという3者構造の、近代目前の総決算、というところ。
よって、主人公の北イタリア人が、イタリア統一運動に向けた急進派の父を遠くに、旧体制派の祖父に押し込められつつ成長し、奇妙な立ち位置でそれぞれの勢力に関与し、現在(老年期)はパリに住みフランス政府に関わる(といいつつ、ドイツ※これはプロイセン新ドイツ、ロシアに関わる)、というような背景も、ものすごく現実的。
一方で、ミュシャや19世紀美術で時々知る機会があって、現代の私には理解不能な、この時代の近代なのか前近代なのかよくわからない神秘主義の横行、同時に生まれたての共和主義の危うさ、急成長したジャーナリズムの功罪、などが、とにかくどっと描かれています。
はっきりいって主人公は悪人なので、その行動に感情移入するような類の小説にはなっていませんが、それでも、エーコが描きたかったのは、別にご自分のアイデンティティへのノスタルジーではないのは明らか。
エーコの本職が小説家ではなく、やはり「知識人」たるゆえんでしょうかね。
はっきりいって、これは現代の物語なのです。
「メディア」が近代の紙(週刊誌)から現代のインターネット(電子媒体)に変わっても、その源を左右するのは人間なのですよ。
その源にいる人間が、たとえ、最終的な事件の結果に対する関心がなかろうと、公正でない企みをもっている時、容易に、事件の結果に関与しうる、ということを、読者は読み解くべきなんだろうな〜、と思います。
やはり、恐るべし、エーコ。