pico_usagi’s blog

つれづれ鑑賞記を引っ越し作業中です!

ウンベルト・エーコ『プラハの墓場』

2年前、自分がプラハへ行くことが決まった時に、偶然見つけて、テンションを上げるために買った本ですが…、その後しばらく放置。

最近になってようやく読みました。

 

結論から言って、プラハの街はあんまり関係ありません。(笑)

 

最初、構造が分かりにくく、一気に読むことをしなかったので(登場人物を覚えにくい)、かなりしんどかったのですが、腹を括って読み直し、なるべく集中して読むことにしてようやく理解できましたワ。

 

エーコの小説を全て読んだわけではないですが、珍しく現代に近いところを扱っていますが、舞台は19世紀末の、ヨーロッパ。

 

いつも思うんですが、ヨーロッパ小説は(特に19−20世紀初頭)、ヨーロッパの大陸史を知らないと、ほんと読みにくいだろうな〜と思います。

プラハ」も、そういった意味では非常に象徴的。

 

同時期に必要に駆られて原田マハの小説を渋々読んだのですが、エーコと同時に読んでいくと、ほぼ同時代が舞台であっても、前者がいかにヨーロッパを表層的にしか掬い取っていない小説かがよく分かります。

 

全く現代っ子のイタリア人がどう考えているかは知りませんが、おそらく、エーコのような「20世紀」の人にとって、「イタリア」人というのはいない、といわれていることが当てはまるような気がします。

思えば、『薔薇の名前』も中世が舞台ではありますが、同じ目線を感じますね。

「20世紀のイタリア」が生まれる前の、イタリア半島の構図を思い出してみると、伝統的な「フランス」対「ドイツ※現在のドイツではなく神聖ローマ帝国」とヴァティカンという3者構造の、近代目前の総決算、というところ。

よって、主人公の北イタリア人が、イタリア統一運動に向けた急進派の父を遠くに、旧体制派の祖父に押し込められつつ成長し、奇妙な立ち位置でそれぞれの勢力に関与し、現在(老年期)はパリに住みフランス政府に関わる(といいつつ、ドイツ※これはプロイセン新ドイツ、ロシアに関わる)、というような背景も、ものすごく現実的。

 

一方で、ミュシャや19世紀美術で時々知る機会があって、現代の私には理解不能な、この時代の近代なのか前近代なのかよくわからない神秘主義の横行、同時に生まれたての共和主義の危うさ、急成長したジャーナリズムの功罪、などが、とにかくどっと描かれています。

 

はっきりいって主人公は悪人なので、その行動に感情移入するような類の小説にはなっていませんが、それでも、エーコが描きたかったのは、別にご自分のアイデンティティへのノスタルジーではないのは明らか。

エーコの本職が小説家ではなく、やはり「知識人」たるゆえんでしょうかね。

 

はっきりいって、これは現代の物語なのです。

 

「メディア」が近代の紙(週刊誌)から現代のインターネット(電子媒体)に変わっても、その源を左右するのは人間なのですよ。

その源にいる人間が、たとえ、最終的な事件の結果に対する関心がなかろうと、公正でない企みをもっている時、容易に、事件の結果に関与しうる、ということを、読者は読み解くべきなんだろうな〜、と思います。

 

やはり、恐るべし、エーコ

 

 

 

 

モーリス・ベジャール・バレエ団2021公演

コロナ禍、舞台に立つ仕事の人はいかに困難だろうなぁ、と思う日々。

バレエ公演は無論、海外のバレエ団を見ることもまだまだ先だろうな…、と思っていたところ。

 

偶然、モーリス・ベジャール・バレエ団の来日公演を知りました。公演から約2週間前の話。

 

丁度、10月10日までで終わってしまう、写真美術館での山城知佳子展を見に行くタイミングを測っていたので、かつ、全幕ものの「バレエ・フォー・ライフ」は昔ですが見たことがあるので、3演目ボレロ公演の方へ行ってきました。

 

さて。

 

ボレロのキャストが直前まで発表されなかったので、選択肢がなかったのですが、結果として、エリザベット・ロス様のメロディの日になりました。

 

ボレロの実見は3人目のダンサー、でも男性のメロディを実見したことがなかったので、どちらかというとジュリアン・ファブロー(呼び捨て)を見たかったなぁ…。

 

まず最初、ジル・ロマンの「人はいつでも夢想する」。

ジルの振り付けは「アリア」から2回目。

 

…結論からいって、ジルは私と合わないかも。

「アリア」もそうだったのですが、ジルがその振り付けで「何を」したいのかがわからない。

ベジャールと同じく、「音楽に振りを」と語っておられますが、ジルには構成が感じられない。

そのようなものを意識しておらず、むしろアンチ文脈の前衛派なのかも知れないが…。分かり合えるところがないので、なかなかにきつい1時間に。

 

ちなみに、すっかり世代がわりしていて相変わらずダンサーがよくわからないのだけれど、個人的にはルロイ・モクハトレという南アフリカ出身の男性ダンサーが良かったと思います。

 

小柄なため、ほかの演目では女性とのペアがかなり不利に見えましたが、「人は…」では男性同士のパドドゥがあり、その身体の柔らかさが中性的で、なんとも魅力的。

この人を生かす振り(演目)があればいいなぁ、と夢想(笑)。

 

一方、ベジャールの「ブレルとバルバラ」は、全く歌詞がわからないシャンソンではあるけれど、音楽と振り、構成から、ベジャールの歌手と音楽との解釈とリスペクトがわかるから面白い。

 

ギエム姐さんが引退した(先日、ダニール・シムキンがインタヴュアーを務めた姐さんの近影動画を見ました。興味深いです)昨今、私的に最後のミューズ・ロス様は、1997年にベジャール・バレエ入団で、意外とベジャールと共にした時間は短いのかもしれないけれど、ベジャールの晩年の作品には欠かせない女優性を感じるのだよなぁ…。

 

また再会できて、ほんと、夢のようです。

 

それにしても、3時間近い幕の全演目にロス様はご出演なされていて、お、お疲れが出ませんように…。

 

さて、トリの「ボレロ

ロス様のメロディは以前映像でも見たことがあって、なんというか、あまりにも中性的・無感情的でかえって神々しい様が実はあんまり…と思ったことがあったのですが、東京バレエではなく多国籍からなるリズムとの響き合いを楽しみにしていました。

 

しかし…。

今回はライティングがあまり上手くなかったのかな…。

冒頭が手首のみ照らす、というのがお決まりのパターンですが、それにしても全体がうっすら見える明るさで、劇的度合いが減少。

なんだかね。

 

そしてね。やはりロス様のメロディは淡々持ち味で、かつ、今まで実見してきたダンサーが長髪だったのに対し、短髪のロス様には、盛り上がり時の激情の演出性が薄く…。

「動」の楽しみとしては、7月に見た上野水香さんの方があって、また、同カンパニーのリズムたちとの響き合いもあまり感じられなく。

 

ロス様の淡々具合は超人的、その個性としては興味深いけど、心動く度合いは今回ちょっと少なく、それが残念。

 

…とまあ、こんな感じの感想を書いていますが、とにかく、今、舞台を見られたことは本当に感動的。

感謝してマウス。

 

 

 

 

 

「マイヤリング」を観る。

マクミランの「マイヤリング」がどういうわけかAmazon検索上位にきていたので、ムハメドフを超えるものはないだろうな…と思ったのですが、エドワード・ワトソン主演版を買いました。

ちなみに、ロイヤルは男性プリンシパルが今ひとつ、有名人がいない、というか知らない。ワトソンも初見。

概ね、ストーリは忘れていましたが、フランツ・ヨーゼフ1世周辺の事情にわけあって詳しいので、なんとかなりました。

しかし、登場の瞬間からルドルフ皇太子は不幸と苦悩に満ち溢れているので、いったい、この2時間をどう見せてくれるのか気が重くなりましたが、果たして、一貫して気が重いステージだった。

いつか実見してみたい演目上位にあるものの、これほど、見るのがしんどい演目はありません。

しかしまあ、心理面はひたすら苦悩と冷厳と狂気と世紀末なので、なんですが、とにかく、マクミラン真骨頂ともいうべき複雑なリフトはかなりの見応え。

心躍る「素敵」感は皆無ですが、男女とも、とにかくリフトがすごいわ…。

 

…と、こんなに気の重い演目なのに、なんと、2本見比べやってしまいましたよ…。

比較になるのはムハメドフ主演の1994年上演の映像。

 

ハメドフははっきりいって、むしろ皇帝然としているので(イワン雷帝とかね)、ダメな坊ちゃん皇太子としてはワトソン君の方がリアリティあります(笑)。

身体的技巧より文学的な振りが「マイヤリング」の持ち味なので、この点はワトソン皇太子優位。

 

ハメドフ版は初見の時、レスリー・コリアのラリシュ夫人がイマイチおばさんぽくて(髪型のせいもあり)馴染めなかったのだけれど、自分も歳をとったせいか、若い愛人を繋ぎ止めようとする悲哀感はそれなりにわかるように。

 

しかしなぁ、やっぱりマリー・ヴェツェラはヴィヴィアンナ・デュランテを超えるのはなかなか難しい。ワトソン版のマーラー・ガレアッツイは名前から想像するに同じイタリア系と思われるけど、ちょっとイモっぽい。

もちろん、実際のマリーもどちらかというとお芋さんなんだけど…、登場した時(実は2回目なのだけど)の劇的さが…、減少。

 

全体的にはスターが多いのはムハメドフ版ですが(廷臣役にアダム・クーパーもいる。あと、クレジットがないけど、神父役はマクミランでは…?)、ワトソン版の方が、配役全体のバランスはいい。

 

女性の重要な役が多くて、実際、女性の主役は誰かがわかりにくい「マイヤリンク」ですが、今まではお飾りだと思っていたステファニー王女役も、実際、初夜のリフトがものすごくって、これもなかなか実力がないとできない役どころなのが、今回わかりました。

 

しかし実見するには…、今後の配役が悩ましい演目ですね。

且つ、観て一ミリも心躍ることのない演目だし…。

ギリシアの思い出

f:id:pico_usagi:20210724110913j:plain

クレタ島1996

 先日ベジャールの「ギリシアの踊り」を観て、思い出したのが「ギリシア」と「海」と「岩」と。

 

 学生時代、夏休みの一ヶ月をヨーロッパバックパック旅行へ行き、10日間をギリシアで過ごしました。

 

 初めての海外旅行で、往復(といっても、アテネ・イン、パリ・アウト)の航空券と初日のユースホステルの予約、イタリアレールパスのみを持った、友人と2人個人旅行。当時はインターネットがない時代(あったけど、今の普及の比じゃない)、最近なくなったというトーマス・クックの時刻表と「地球の歩き方」のクチコミを頼りに、よく行ったものです。

 

 ギリシアアテネクレタ島サントリーニ島とフェリー3等の旅(当然デッキ席)、最後はイタリアに渡るため、国鉄に乗って陸を通り、ペロポネソス半島のパトラという港町を巡りました。

 

 当時は車の免許も持っていなかったので、ほぼバスの旅。学生ですから、タクシーという選択はない。

 だから、行ける場所も限られていて、ヨーロッパはそれほどバスが頻繁に通らないものですから、この写真を撮った時のように、何にもできない時間はただぼーっと、海と岩と荒地(乾燥しているので)のギリシアを眺めるしかありませんでした。

 

 ちなみに、今は知りませんが、当時はギリシアでは英語はそんなに共通語でなく、むしろ、出稼ぎの関係か、ドイツ語との2ヶ国語表記をよく見ました。ユーロ通貨ではなく、ドラクマの時代。

 

 私も友人も西洋文化史の専攻学生だった為、旅行の目的地を決めるときはすんなり「ギリシア!」(西洋文明の発祥地として)を選んだのですが、行ってみると、案外、同時代のギリシアという国を知らなかったなぁ、としみじみ思った記憶があります。

 

 そして思った以上に、ヨーロッパにおいては東方的。キリスト教世界とイスラム的東方の最前線だし、思った以上に、古代よりもその時代の影が濃い。

 そして、私が学生だった1990年代は、旧ユーゴスラビアの内戦があった時代。バルカンの政情を扱った映画も多く、感化を受けた年代です。

 アンゲロプロス監督の映画のような、やや詩文的な隠喩もありますが、あの感じがギリシアの現代だなぁ、と思う。

 

 ベジャールのバレエが海の音(あれは「波の音」ではない)と、海の擬態からステージが始まったとき、なんというか、こうした記憶が文字通りぶあーっと、思い出されたわけです。

 

 そして、哀愁漂う音楽。

 

 同時代的なギリシア音楽を全く知らなかったので、ただ遺跡の野外公演を見たいというだけでチケットを買った上演の演目が、そうしたギリシア音楽だったので(キリル文字が読めないので)、日々ロックとかポップスとか、アメリカ由来の音楽に馴染んでいた若者にとって、現代(当時)の音楽として民族音楽が基調だったことはかなり衝撃的でした。

 

 ベジャールの使用する音楽も、ハプシコート?かなにか、弦楽器の音がそうした記憶をすごく呼び覚まして、なんというか、私は西洋人ではないけれど、人間の始源をふと思い出すのがギリシアなのだな〜、と。

 

 ベジャールの振り付けを通して、今回はそんなことをしみじみ思いました。

ボレロのこと。

コロナ禍の厳しき産業(B系)に従事しておりますが、舞台の人は本当にご苦労、だと思います。

 

私も昨年のパリ・オペラ座の公演を最後に、ほぼ皆無の観劇状況。

オリンピック効果で名だたる海外バレエ団の日本公演が予定されていた昨年の状況は一気に鎮静化して、いつまたあの引っ越し大公演がみられるのか、全くこの先の見通しはわからないですね。

 

そんな中、県内の劇場が何件かダンス公演を再開したことがわかり、東京バレエ団の巡業公演へ行ってきました。

その名も「ホープジャパン」。

 

ホープ…」といえばちょうど十年(正確には9年)のギエム姐さんの東日本大震災後の慰問大ツアーと同じ題目ですよ。

 

2012年の公演も観ており、このブログのどこかに眠っているはずですが、ちょうど一度ボレロを封印したギエム様が、被災者を勇気づけるためにその封印を解いた、とか何かが売り文句でしたが、その言葉通り、本当に「神の如く」の公演だったことを覚えています。

 

それをまあ、ツアー名もさることながら、同じ「ボレロ」をぶつけてきた東京バレエ団、というか上野水香の豪胆さには全く、唖然、ですが、本当に貴重になった機会ですから、行くことにしました。

 

結論。すごくよかったです。

 

演目の「ギリシャの踊り」は、別に思うところあり、またの機会に書くとして、「パキータ」は演目自体がなんだかな、というものですが、主役の宮川新大というダンサーは東京バレエ団男子にしては珍しく(失礼!)クラシックの軸がまっすぐ綺麗で柔らかくて、全幕者で見たいなー、と思いました。

 

とまれ、上野水香の「ボレロ」。

 

この人に対する懐疑的な思いは以前書いたのですが、ボレロで見れてよかったなーと思える内容。

メロディとリズムの調和も、さすが同じ(※上野さんは元々は牧阿佐美バレヱ団出身ですが)カンパニー、という感じですが、メロディにあるべき支配力、なのに「無」の感じ、のための身体能力・円熟と、バレエに生きる人たちの熱量がちょうどの感じで、まさに今しか見られない、という迫力のある舞台でした。

 

それにしても、ベジャールの「ボレロ」は、今まで実見したのがギエムのみ、ほか、映像で見たのがプリセツカヤ様、マリシア・ハイデ(呼び捨て)、エリザベット・ロス様と、ジュリアン・ファブロー、ジョルジュ・ドンなのですが、男性陣は知らんが(もともと、メロディは女性巫女)、女性陣は何故か40〜50代で踊っているのを見ることが多く、一般に言えばダンサーの身体的ピークを超えている年代なのですが、この方がかえって、その円熟の凄みを味わえるような気がする。

 

上野水香も、手足が非常に長く、身体性にも優れ、というのは昔からだったのだけれど、今ひとつ感動味に欠けるダンサーだなぁ、と思っていたのですが、40代という、ダンサーとしてはもう若くない時期にさしかかって、その表現の円熟がみられ、これからも頑張ってほしいなぁ、と思った次第。

 

 

バレエ「ジゼル」みて比べ

f:id:pico_usagi:20210517185032j:plain


 

コロナ禍でバレエ実見機会が激減中。

 

目下、アフター・コロナ(があるとすれば)に海外遠征ツアーが復活するかが、本当に気になるところ。

 

さて。

GW中にいろいろ音楽で遊んでいたときに、急に思い出したのが「ジゼル」。

個人的に、アルブレヒトがジゼルの墓にやってくるシーンの音楽がものすごく好き。

というわけで、まず持っているジゼルDVDを再見してみました。

(なので、過去と重複する記事もある鴨ネギ)

 

最初に観たのがオペラ座の2006年公演。

レティシアプジョルとニコラ・ル・リッシュのコンビです。

 

前にもかいたと思うけど、プジョルの、特に死後のジゼルは霊としての冷たい感じがものすごく印象的。

これによって、「ジゼル」が必ずしも無償の愛(男にとって都合のいい女性像)の具現ではないのだ、と思った、記念すべき一本。即ち、愛とは個人の感情ではどうにもならない、運命のようなものなのだよ。

ニコラはロイスとしてはもっさり君、だけど、さすが王子はかっこよくなっており、こちらも後半の方がおすすめ。

 

2本目に、「無償の愛バージョン」を観ようと思い、ザハロア&ボッレのスカラ座版にしようかと思ったのですが、これがあんまり面白くなかったよな〜、という記憶があり、Amazonを漁ったところ、フェリ主役の古いスカラ座のDVDがヒットし、これを買いました。

 

フェリ主演の1996年公演は、以前ビデオで持っていて、今時ですから、再生できなくて再見が叶わなくなっていた映像。

以前は気づかなかったのですが、アルブレヒトはマッシモ・ムッルだったんですね…

ちなみに、ジゼルには1幕目の主役コンビ以外の見せ場に農民カップルの踊りがあるのですが、この農夫が、まだ21歳のロベルト・ボッレだった…

初見は2000年頃だと思いますが、なんと、歴史的な映像だったのですねぇ。

ボッレは、散々書いててきたように、私にはあんまり良さがわからない方なんですけれども、いつも何気なくみている農夫ダンスとは破格に上手い。

(ボッレ好きの方にはスミマセン)

ムッルも、私が知っているのは大体30代くらいの頃で、何というか、印象は薄いんだけど陰があるダンサー、というか、虚無的な感じがあるというか…、そういう意味では観念的なコンテンポラリーの方が似合うように思っていたのですが…

一言。

若くて可愛い(変態的)。

何というか、年齢的にもちょうどアルブレヒトのリアル年齢に被っている感じで、まだ青さが抜けないけど、ジゼルを経て大人になっていく、というような感じがうまくリンクしているのです。

踊りも繊細でバネがあり、キレイ。

 

あ、主役はフェリです。

フェリは「狂乱」の場がすごい、という評判だったような気がしますが、当たり前ですが、全体的に上手いです。技術もしっかり、感情表現についてきているという点でもさすが。

生前も生き生きと可愛い娘=ジゼルの表現が可愛いし、これは惚れますよね。

 

見比べポイントとしては第2幕の死後の表現なんですけど、これはプジョルが目を開けっぱなしで瞬きすらしないところに霊を感じたですが、フェリはものすごい伏目。前が見えてるのかな…というのが心配になるくらい。

これが死者と生者の違いの表現なんでしょう。

やや、私の思う「無償の愛」バージョンに近い関係性ですが、もうちょっとマイルドな感じ。

(都合のいい、とまで感じないくらい)

ラストのアルブレヒトの印象から、ジゼルだけでなくアルブレヒトの物語なんですね、と思うような映像です。

 

一つ残念なのは、ヒラリオンがややフツーの人にしか見えないところかなぁ。

オペラ座のロモリはちょっと気味悪さを感じさせるくらいだけど、基本的には「粗野」さがわかる描写があった方がいいと思う。

 

さらにもう一つ、ここでザハロア=無償の愛強バージョンを観ようと思ったけど、やっぱり、名盤を観たい、という気になり、ヌレエフ&カルラ・フラッチのローマ・オペラ座版、1980年公演を再見。

 

結論。やはり名盤です。

 

私自身は世代的にあまり詳しくないのだけれど、フラッチのジゼルはプリマの中でも伝説的なんだそう。

ヌレエフもやや歳をとった頃になるのだけれど(特にロイス時代の髪型が気になる)、やっぱり感情表現と技術においてはこれ以上のアルブレヒトは望めない、というくらい全てが素晴らしい。

全体的なメイクの古臭さが始め気になって仕方ありませんが(ミルタも…、トロカデロみたい)、見慣れてくると、そんなことをいっていられないくらいになります(笑)。

 

このバージョンは、先の2本と少し演出が違うな〜(お母さんによるウィリの説明〔脅し〕がない、ヒラリオンが最初「目に見えない」ウィリに襲われている、アルブレヒトの従者が墓参りを邪魔しない、コールドのウィリはベールをかぶっていない、教会の鐘がならない、など)、と、古いからかと思ったのですが、これはラヴロフスキー版なんだそうで、だからなのかしら。

でもそれはそれで、スッキリと踊り勝負でやっています。

 

残念なのは、ビデオ移植版のDVDなので映像がぼやっとしている所ですが、それをさっ引いても、全ての踊りがスバラシイ。

死後(第2幕)のジゼルは、やはり無償の愛より何だけれど、踊りの完成度の高さのせいか、甘さはそれほど感じられなくて、プジョルとベクトルが逆の霊的な感じ(人間でない感じ。うまく言えませんが)で崇高、というか。

 

映像はしょっちゅうブラボー出まくりで中断する(次の手のコールドがポーズに入りながら、進行が止まってしまうので、苦笑いしながらポーズを一旦解いたりする)のがちょっとイラッとしますが、実際にこの歴史的な舞台を目撃した(幸運な)人ならば、さもありんなん。

ほんと、そうしてしまうのもわからんでもないよ(笑)。

 

 

バレエ『シンデレラ』と現代

f:id:pico_usagi:20201124210755j:plain

オランダ国立バレエ団とマリインスキー

名曲ながら、現代において名振りが難しいと感じていたプロコフィエフの『シンデレラ』。

ここにきて、納得振りを二つ。

 

まずは、ラトマンスキーによるマリインスキーの『シンデレラ』。

実は2002年の来日公演で、人生において初めて見たシンデレラがこの振付です。

当時は、何分初見だし、あまりにも現代より(ただし、1920~30年代のNYが舞台)なので、なかなかに受け入れがたかったのですが、クラシックとしての『シンデレラ』が迷走する中で、もう現代よりならば、かえっていいや!という気持ちになって…、再見。

 

主演は、私とどうも相性の悪いヴィシニョーワ様。

でもこのロールは、全然サイボーグっぽくなくて、生き生きして好印象。

すっきりとモダンな衣装と舞台装置も、もっさりしがちなロシア・マリインスキーには珍しく(失礼!)、音楽ともぴったり合う洗練された振りだな~と思いました。

現代人の感情としてイライラしがちな、いわゆる「シンデレラストーリー」感が薄くって、流れるように舞台を見ることができます。

王子役も、晩年の(失礼!)ヴィシニョーワ様と組むことが多いシャクリャーロフ君。往年のマリインスキーのプリンシパル(旧ソヴィエト組)のような花はないけれど、若手では実力派ですな。

 

…とまあ。こちらは少し前に見たので、ちょっと不利な感想ですが…。

 

ラトマンスキーが一番か?と思った矢先、現代の『シンデレラ』としてより洗練していると思ったのが、オランダ国立バレエ団のクリストファー・ウィードン(誰)?による『シンデレラ』。

はっきり言ってジャケットがもっさりしていたので、期待薄だったのですが…。

 

日本ではあまりなじみがないオランダ国立バレエ団ですが、オランダだけに、モダンに期待値上がる。

はっきりいって、主演のダンサーたちも全く知らないのですが…。

(ただし、だいたいが名前からして、ロシア系ですね)

 

初めに、あまり丁寧に描かれることがない、シンデレラの母親との思い出がプロローグに現れる。

父親も出てこないことが多いのですが…、オランダ版のパパは、よくあるようにあんまり飲んだくれでもない感じ。ただし、なぜか継母には弱い。(なんで結婚した…?)

 

王子も割と丁寧に描かれているので、子ども時代はこちらもあった。

ただ、あらすじを読んでいなかったので、こっちは最初「誰?」という感じ。

あと、嫁探し挿話もあったりと、わりと『白鳥』のジークフリートっぽい。

 

変わった演出(解釈)が多く、戸惑うこともありますが、舞台としてはすごく完成されていて、流れがスムーズだし、おしゃれ。

なんというか、ラトマンスキーは「モダンなシンデレラ」なんですが、こっちは現代的なおとぎ話といった感じで、きらきら感、わくわく感がまさにそれ。

 

魔法使いのおばあさん(善の妖精)は出てこないし、シンデレラと継母のいざこざも9「使用人扱い」というよりは単なる感情の縺れ(現代では、こんな義家族はあるあるだものね)のような感じ。

音楽とダンスを全くの連続でつないで、おとぎ話ムード全開のまま、エンディング。

いやはや、現代の全幕物として、とても面白い『シンデレラ』でした。

 

ただ…ね。

冷静になって思うこと二つ。

結局、シンデレラを幸せに導いたのは、「亡き母の愛」ゆえの魔法、という他力であること。また、「母の愛=絶対無条件の愛」という、ある種の古いジェンダー感。

シンデレラが相変わらず意志のない女の子、というのは型通りのままですね。

 

もう一つは、王子の花嫁候補に見る、19世紀ないし20世紀的帝国主義観。

クラシカルな『シンデレラ』は、王子はシンデレラ(昨晩の謎の姫)を探すために世界中を回る、というシナリオがあり、それを再解釈して、今回は各国の花嫁候補たちが中盤に出てくるのですが…。

 

もちろん、プロコフィエフの曲がそう、というのもあるんですけどね。

花嫁候補が、スペイン、ハンガリー、バリの姫を思わせるのはインドネシア

ハンガリーはちょっとよくわからない(もしくはロシア?)けど、スペインとオランダといえば、ハプスブルク系の同支配者だし、インドネシアは、戦前の植民地でしょ。

とくに、アジアの姫君はちょっと戯画化しすぎで、人種差別的なのよね…。

これってとっても、19世紀バレエ的な「政略婚」描写だな~と思ったわけです。

この点、新しいのか因襲的なのか、よくわからなかったところです。