pico_usagi’s blog

つれづれ鑑賞記を引っ越し作業中です!

1年後の『ラ・バヤデール』

先日のザハロワに盛り上がったついでに、ブルメイステル版ミラノ・スカラ座『白鳥』を観ようか、と思いましたが、ちょっと『白鳥』を小休止にして、同じボリショイ、グリゴローヴィチ、という路線でザハロワ主演の『ラ・バヤデール』を観ることにしました。

さかのぼってみるとちょうど1年前に観ているようですが…、視点を変える?と、目からウロコが落ちた模様。
前回と全然違って、大変面白くみることができました。
前回は『バヤデール』3連発で、ロイヤルのヌニュスの太陽のようなガムザッティ、パリ・オペラ座のゲランVSプラティルの女優対決の陰に貧相にみえたボリショイですが。なんということでしょう。

『バヤデール』は、時としては古臭く感じるストーリーなので、感情移入のポイントがないと全く現代では楽しめなさそう…と思ったのですが、妙なところで、最近世間をにぎわす種々の「二股騒動」が、ソロルに変なリアリティを与えてしまったようです(笑)。
男って、案外素で(平然と)、妻と愛人を割り切ることはありうるな~、と。
設定が設定だけに、ジークフリートなんかより全然、リアルだわ。

↑と、ふざけているわけではなくて。
あらためてみると、やはりグリゴローヴィチ版は、時に脚本の未消化が内容を意味不明にしてしまう『バヤデール』のなかでも、全体を整理してすっきりしたまとまりをつけたヴァージョンであることがわかる。
ゆっくり主人公たちを眺めていると、マイムもそれほどくどくはなく、前回はランラートフの感情表現がよくわからなかったのに、今回よくみれたような気がします。
やはり、「二股」にリアルを感じたからか。
ニキヤに愛を誓ったはずなのに、ガムザッティには、政略婚(上司の命令にノンといえない男子あるある)というだけでなく、確かに、一瞬にして心惹かれた(もちろん、多少その富と権力の魅力はありそう)表情がよく出ていました。

相変わらずピンクの似合わないアレクサンドロワですが、お金持ちの元気な娘さん=ガムザッティとして安定してみれました。
無邪気にソロルを気に入ったり、ニキヤに対する不安を権力者の余裕で封じ込めようとする気位の高さ(悪気0の強権的態度)など、丁寧な表現がよくわかる。

二人のヒロインを並べると、やっぱりどうしてもザハロワの表現力(と存在感)が際立ってしまうけれど、それはさておいて、今回のザハロワは、なぜか前回観た印象とは違い、ちょっと浮世離れした(神に仕えるから)踊り子、恋する乙女、悲運を悲しむ乙女、あの世で遠い存在となってしまう霊、というニキアのすべてをうまく演じているようにみえました。
とくに、婚約式の悲しみの踊りはあんまりにも切なくて、前回はなぜかランラートフ演じるソロルが全然それに反応していないようにみえたんだけど、不思議なことに、今回はソロル自身もすごく動揺しながら固まっている(苦悩?)ようにみえました。

なので、前回はなぜかニキヤを見捨ててガムザッティと去って行くようにみえた(そこでニキヤが絶望した)ソロルが、そうではなくて、ガムザッティの企みに目を背けた、ということがわかり、次の幕の「ソロルの後悔」へとつながって、全体が大変よくみえるようになった模様。

それにしても、花籠は終始托鉢僧が持っていたから、まるで彼が毒蛇を仕込んだように見えて意味不明だったんだけれど、シナリオ的にはガムザッティが犯人のようです。
たしかに、ガムザッティは罰の悪そうな顔をしてるけど…、ここだけは今回疑問。

他の版では「影の王国」が、どうにもただ単にアヘンに溺れたダメンズによる都合のいい幻想、にしか見えないのですが、グリゴロ版は幕と幕のつながりがスムーズなので、婚約式を後悔の気持ちいっぱいに飛び出してきたソロルがその勢いのままに夢見る(ただし、夢の中で救われることはない)、というストーリーをすんなり読み取ることができました。
ここが一番、グリゴロ版の良いところですかね。

というわけで、どうしてこうも180度評価が変わってしまったのか、自分でも謎な『バヤデール』ですが、昨今例をみないこのゴージャス・ステージを、ぜひ実見したいなあ、と思った次第。