pico_usagi’s blog

つれづれ鑑賞記を引っ越し作業中です!

日本画について。

美術展覧会にはよく行きますが、正直、期待が高ければ高いほど、がっかりすることが多い今日この頃。
この際自分は置いといたとして、その原因が作家の力量やキュレーションに端を発するものとすれば、いろんな意味で複雑な気持ちになります(←何様)。

今日は日本画の話。
材質上、あるいは画題上の「日本画」はもちろん現代にも存在しますが、独断と偏見で言い切るならば、現代の「日本画」にはかつてのような魅力はありません。だから現代のものはほとんどみない。
日本画」とはジャンルではなく、やはり近代のある特定の時期の、日本の美術の一傾向なのではないかな~と個人的には思っています。
この特定の時期というのは、せいぜい明治・大正・昭和初期までの三代。
芸術とは何ぞや~を語りだすと穴にはまりそうなので触れませんが、やはりこのころは画家自信の勉強量が圧倒的に違う、そうしたものが作品からにじみ出ている(しかも、頭でっかちにならない)のがすごいな~と思います。

↑以上は菊池契月の個展をみての感想。
鏑木清方上村松園ほど有名ではありませんが、実力十分な京都の文展作家です(ただし、出身は長野)。

明治の青年画家たちは、一生懸命「画題」の新案を考えあぐねていたものですが、そうした時期の青年契月の作品には、その時代らしい物語的な情感豊かな味わいがあります。
日本画から線が消えたといわれて久しいですが、この人は線の伝統上にある画家で、この初期の作品には円山派らしい肥痩のある筆遣いにも精進のあとがみられます。

大正期にはまた大正期らしい、どろっとした、線よりも色彩の濃淡で調子を整えた作品もありますが、契月といえばやはり、緊張感のある鉄線描。
「冷たい美人画」なんて評もありますが、昭和初期ころの作品には、現代風俗を扱ったものにせよ、歴史上の人物にせよ、理想化され抑制された人物像に、かえって鑑賞者自身感じるものは多いような気がします。
ちなみに、契月が同時代の女性を描いた作品は実際は数点しかないのですが、一般には印象が強く残ったようで、断髪・着物の女の子が犬を散歩させている作品などはよく紹介されているのではないかと思います。

話は少しそれますが、おなじ現代風俗を描いているのでも、なぜか現代の画家の描く女性像に魅力を感じることはとんどありません。はっきりいって、描かれた人物が垢ぬけない。いつも思うことだけど、何でですかねぇ。

最初についた先生が確か南画家だったせいか、よくわかりませんが、晩年に近い作品の人物画の中には、この作家に特徴的な鉄線描とは違う、簡潔ながらも温かみのある線描のものもあったりして、興味深かったです。

こじんまりとした会場ですが、代表作のほとんどをみることもでき、みごたえのある内容でした。