pico_usagi’s blog

つれづれ鑑賞記を引っ越し作業中です!

『愛を読むひと』

今日ようやくのお休み。
遠出しようと思ったり、でもぐずぐずしてしまい、近場で映画を観にいくことに。

タイトルがヤな感じ(↑安い昼メロみたい)だし、あまりにもいろんな雑誌で取り上げられているせいで話の展開が読めるので、これもまたいざみるとなるとぐずぐずしてしまいましたが…、結果、おもしろかったです。
というか、自分て結構、単純に涙もろいのだな~と思いました(;.;)。
すごく、というところはどこにもないけれど、泣けるフィルムです。

意外なことに?、最初、ケイト・ウィンスレットが(美人なのに)しわッぽくて、実年齢より老けていることが気になってしかたがなかったのですが…、あとあと、これでよかったのかもしれないと思いました。
もともと、二コール・キッドマンがキャスティングされていたそうですが、ケイトの方がよかろう。二コール・キッドマンの場合、逆に実年齢よりも若くみえるだろうし、1950年代(というか現代も)のドイツ女のどっしり感は無理だろう…。
年上の女性との官能、というよりは、生活感ある方がなじむような気がします。
一説には原作者がドイツ語より英語での映画化を望んだとも聞きますが、個人的にはドイツ語の方がよかったなぁ…。

一方の男の子、最初はどうしても15歳にみえない。
まあ、ドイツ人は大きいしね…。顔もちょっと、ある意味ドイツ人らしい地味顔。
でも、ときどき急に泣いたりして、あー、やっぱ子どもなんだなぁ、と思わせたりします。
そのまま自然に大学生役になっても、なんか、リアリティのある配役でした。

「彼女には隠したい秘密があった…」
という思わせぶりのキャッチ、ナチの親衛隊で収容所の看守をしていた過去を思わせるようで、実は、文盲(←差別語だったらゴメンナサイ)のことのようです。

文字が読めなかったから、生きていくため職を得るために看守となり、
文字を読めなかったから、市電の乗務員から事務員への昇進を言い渡されると、事務ができない(文字が読めない)ことが露見するから去らねばならなかった
文字が書けないから、裁判で看守の主任にでっち上げられても否定できなかった(←プライドの問題?)

観ていて頑固だな~と思ったりしますが、この一本気なところがケイト演じるハンナの持ち味か。

もしかしたら、裁判で被告に有利な証言をできたかもしれない主人公が、ハンナ(ケイト)が文盲であることを隠したがっていると気づき、さらに自分の秘密(←たぶん、少し大人になったのだろう)をさらけ出すことにためらいもあったりして(怖さもあり)、結果、それをせず。
主犯に仕立て上げられた(←元同僚によって。さすがナチ女)ハンナには無期懲役が下されてしまいます。

ホロコーストの問題について、虐殺の過去即悪でみる見方、「私は知らなかった」という被告に「知らないことが罪である」とした裁判官のエピソード、そうするしか生きられなかった人々の哀しみを描くものなど、これまでにも様々な視点で描かれていますが、あくまでも後世の第三者としていうなら、政治的なものやヒューマニズム云々は抜きに、人間の尊厳(プライド?)について素朴に考えさせられました。

脱線しますが、映画で法廷をみていると裁判ってそんな簡単なものかな~と、いつも思ってしまいます。
主人公の同級の法科大学生(後世のドイツ人。勉強のため、みんなで傍聴)が「あの女を殺してしまいたい」と怒り狂っていましたが、正義とファナティシズム紙一重だな~と、個人的に感じたシーンです(←彼のような人間は弁護士にも検事にもなるべきではないと思うけど、現実にはいるんだろうな…)。
日本でも裁判員制度が始まりましたが、人が人を裁くのはつくづく難しいものですね。

それにしてもよくわからなかったのが、晩年のハンナが逆に色情狂い?に傾きかかったように描かれているところ。
刑務所の職員が、「最初にいっときますが、彼女は数年前まではそれはきちんとしていたんですが、今は構わなくなってしまって…」といったのはどういう意味だったんだろう。
「過去を思い出す?」(←たぶん、虐殺当時)と主人公にいわれ、「私たちのこと?」といったのはどういう意味?

ただ単に、レイフ・ファインズの顔立ちがそうなのかもしれませんが、晩年に二人が再会した場面、女性が年上の初恋の場合の失望感がにじんでいるようで、なんとも現実的で冷酷(気のせい?)。
ようやくそこに、過去を無駄にしたハンナの孤独が表情に現れたような気もします。
なぜ生きるかを問うことなく、生きるために生きた人間の、最後の孤独。

最後に余談。怖~い女優さん筆頭格のレナ・オリンが、収容所から逃れたユダヤ人少女のその後として出演。古い映画でしかみていなかったのでこちらも…老けたなぁ。

(↑あんまり感動が伝わらない文章だ…)