pico_usagi’s blog

つれづれ鑑賞記を引っ越し作業中です!

ダミアン・ハーストほか、展覧会

コロナ禍の私のモットー?は、「今したいことは、今やっておく」。

そんなわけで、展覧会みたり、美味しいものを飲み食いしたり、舞台を見たり、というのは感染状況と睨めっこで虎視眈々とタイミングを測ります。

 

六波のピークが一年前とは違い、なかなかタイミングが難しいところでしたが、ここで一つ、GW前に春のみたい展覧会ツアーに出かけることに。

 

そんなわけで、楽しみにしていたのが「宝石展」。

…結論からいって、がっかりでした。

普段はあまり行かない科学博物館、会場で「博物館にこんなに女性が多いのも珍しいなぁ」とセクハラ?発言している人もいましたが、どちらかというと、私は鉱物が好き。

科学博物館ならではの専門性を、面白く展開してくれていることを期待していたのに・・・。

(あと、国立館ならではの財力ね)

 

まず、驚きや新知見を得る喜びのない展示にがっかり。

「見て」「わかる」展示ではなく、従来の解説が淡々と展開され、淡々と標本が陳列されているだけの展示に、展覧会にする意義があったのか?と思う。

本で十分ではないか…という気がするが、図録も結構、展示そのままでがっかり。

発売が開幕に間に合わなかったという意味がわからない。

(そして、ほぼ後半のジュエリー展示の分量の方が多いのはさらにがっかり)

 

第二に、展示がダサい。

しつこいが、ただの標本展なのか?

科学の解明が与えてくれる驚きを視覚化してほしかったのだけれど、まま、モノ展示。

かつ、これは博物館標本としての標準なのかもしれないけど、化学処理と現物ママの境が素人には分かりにくく、「リアル」感よりどこか「偽物っぽさ」が漂い(原石が発見されるママの状態なのか、再現的な状況複製なのか? 説明がないと、素人には胡散臭く見えます)、不信の目でしか見られなくなり。

 

ちなみに、「ヒカリモノ」の展示のわりに照明がギラギラ一本調子で、見にくかった。

照明デザイナーはつかないの…?

 

第三に、標本のようなぼっぱなし展示の割に、基本撮影OKにしており、その会場オペレーションがひどい。

ただでさえ見難いケース+小さいモノ展示なのに、巨大な望遠カメラを構えながらリュックを背負った人も多く、合間を縫ってみるのが大変苦痛でした。

 

なお、個人的にジュエリー展を楽しめた試しがない(臨場感がないので、感情移入のポイントがない。私にとって建築展なみ)せいもありますが、第5章のとってつけた感が半端なく、今回の展示で博物館が「何を見せたい/理解してもらいたい」のか、その狙いが全く伝わって来ず。これで2000円と図録3000円は高い。

 

 

噂のネギ

 

さて。地方暮らしにとって、昨今の東京展覧会予約制はかなりハードルが高いです。

日帰りのため、都内を縦横することの見通しも立てにくく、不本意?ですが、今回はブロックバスターづくしになりました(笑)。

 

余裕をもって予約するしかないので、朝イチの上野の後に向かったのは午後、六本木の国立新美術館

元皇族マダムの話題でも賑わしい、メトロポリタン美術館展です。

メトは15年ほど前に行った時に見ているはずなのだけれど、当時図録を買っていなくて、コレクションの記憶がほとんどなく・・・、思い返せばすごく観たかったかどうかは不明。

 

展示されていた作品のチョイスのせいか、案外小品が多いのかな…という印象。

同じ名品展でも、2年前のロンドン・ナショナルギャラリー展の方が面白かったなぁ。

唯一印象に残ったレンブラントの「サスキア像」はなぜか絵葉書の写真があまり良くなく、感動が残せず。(買ったけど)

これもこれで2000円は高い。

 

最後に。

時間調整のためにはいったダミアン・ハースト展。

 

ロンドンのスター画家ですが、この時期、日本で「桜」の展覧会をするなんてあざといな…と、当初はナナメに思っていたのですが、結果として、これが一番良かった。

 

広い会場をぐるりと回るだけで、全貌を見たような気にもなれる、という、なんだかなーという展示ではありますが、ピンク・ブルー・黄色・白の色の組み合わせは、なんとなくハーストらしいと思う色相だし、かつ、インタビューが秀逸なのですが、ハーストがなぜこれを描いたのか、ということがいろんな繋がりというか展開をみせてくれます。

 

シンプルだけど、いかようにも、みる人が自由にその人の視点で見ることができ、かつ、新しい視野がひらけてくる驚きがある、体感的な展示。

 

ということで今回唯一、「見たなー」という展覧会体験をくれたもの。

展覧会とは、かくあって欲しいものだとしみじみ思ったツアーでした(笑)。

 

「ハウス・オブ・グッチ」とファッションの夢の90年代

を観ました。

公開前からファッションサイトでかなり押し気味で紹介されていましたが、特にグッチに興味がなく、スルーしていましたが、なんとなく顔が気になるアダム・ドライバーが出ていることを知り、俄然観たくなり。

 

最近はアニメと邦画しかやらなくなった田舎のシネコンでも(ガガ様のお陰か)レイトショーをやっていることがわかり、週末は零度下にならないようだったので、やる気を出して行ってきました。

監督は賛否の振り幅が大きいリドリー・スコット。意外。

 

レンタルどころかネットで映画を見る機会が増えた昨今、このフィルムが大画面の劇場で見るものなのかどうか、正直、わかりませんが、でも少し期待はあったのは、イタリアの美しい風景が見られるもかも、ということ。

コロナ禍の昨今、海外旅行はかなり遠のいているし、でもイタリアはそもそも私の郷愁をものすごく誘うのです。

ハリウッド映画なので登場人物はみんな、英語で喋ってますが、時々、イタリア訛りのような発音を混ぜて、どちらにしろ外国人の私にはすごく効果的に響きました。

そして、そもそもイタリア系のガガ様、そのゴージャスな佇まいはイタリア女にしか見えん。

 

配役もゴージャスで、アダム・ドライバーは70年代といいとこの坊ちゃん風のもっさり感と品のよさが絶妙だし、イタリアン・パパのご愛嬌と強かな経営一族感が怪演ぷりを見せるアル・パチーノ、退廃的な美しさがゴージャスなヴィラにふさわしいジェレミー・アイアンズ、だめ息子怪演が素晴らしいジャレット・レト。

レトは「こんなにふけたのか!」と思ったけど、特殊メイクの賜物だったらしい。ハリウッドのメイク力、ほんとすごいね。でも、それに違和感ないレトもすごい。

そして、ファッション映画らしく、現在はピノー夫人でもあるサルマ・ハエックもジプシー女らしく登場。

…とまあ、名優揃い。

ソフィア・ローレンや、アナ・ウィンターのビミョーなそっくりさんが出てくるのはご愛嬌。

 

ところで、主役はガガさんの演じる、グッチ直系の最後の社長・マウリッツィオを「誘惑した」パトリッツィア(実在)なんだけど、全部見終わった後の感想としては、主人公の役割というか性格づけが今ひとつ曖昧かなーと思いました。

お金持ちのトッポいぼっちゃんを引っ掛けてやる!という思いはそれほど鬼気迫っても見えないし、金銭欲はそれほどがめつくは見えない(むしろ、最後に近いところのマウリの描写の方が、金遣いの荒さ〈ボンボンとはいえ〉が際立つ)し。偽ブランドや「馬鹿にされたグッチ」への怒りは、グッチの直系たちより強かったりするし。

経営(陣)に口を出すのも、ほんの一瞬(アルド一家をはめる一瞬)。

おそらく、月日の経過の描写があんまり明確ではなく、気づいたときに20年くらい経っているので、2人の関係の推移がトートツすぎるのかも。

逃避先が雪降るスイスの山荘、というのがいかにも北イタリアの「華麗なる一族」ですが、そこで(おそらく)旧友に再会したところで、庶民(とはいえ、小企業の社長の娘だから、まずまずでは)出のパトリッツィアとの育った環境の違い(ハイソサエティの教養を欠いた妻)に急に目覚めた、というのが急転直下風。

 

…とまあ、不思議と段々ガガ主役の映画、というよりはグッチ家なるものを見る、というふうになるのがなんとも、だけれど、それはそれで、興味深いフィルムでもあります。

 

実際にマウリが暗殺された当時は「グッチ家の悲劇」というのはそれなりに日本でも有名な話だったので、今回いろんなレビューで「知らなかった」という人が多く、当時すでにもの心つく年頃だった私はかえって驚きました。

90年代は、ジャンニ・ベルサーチの暗殺事件なんかがあって、最後の暗躍期を見せたイタリアン・マフィアとイタリアのビックメゾンの創立者の悲劇が目立った時期。

一方で、トム・フォードの登場のように、新世代のデザイナーが自身のブランドの創立ではなく、老舗メゾンの再生を活発化させたのがこの90年代から2000年頃のファッション界の動きで、サテン・シャツやベルベットのローライズのランウエイでの登場を見た時、個人的には懐かしさと当時の衝撃を思い出して感動。

確かに、緑と赤のリボンや、GGマークに古臭さしか思わなった10代の私が、トム・フォードの「不良ブルジョア」っぽい、新世代のラグジュアリーを見せつけられた時の衝撃といったら、コロナ禍のファスト・ファッション全盛の2020年代にはもう二度と望めなさそう。

あの頃のファッションには、夢があった。

 

と同時に、外国資本のM&Aが描かれていたように、まさにピノー家のような、ファッションが創業者デザイナーの経営を離れ、巨大資本の下の再編に翻弄されていく時代の始まりでもありました。

 

「経営の才能がない」と言われたマウリの描写がやや戯画的でしたが、「グッチの再生のために新しいデザイナーにアルマーニを入れろ」という発言、弁護士(だったと思うけど、いつの間にか経営パートナー)に一蹴されているところが、実は時代を変えるには創業者一族の誇りだけでは難しくなっていた時勢の象徴かしら。

 

「お前はグッチではない」の一言が全て。そしてその終焉。それがこの映画のキモなのかしら。

なので、後半、ガガ様が主演であることを若干忘れてしまいました。だからこそ、映画のタイトルが「ハウス・オブ・グッチ」なのかしら。

 

焦点が定まりにくいですが、細部はとても興味深いお話。

マウリの暗殺がもうちょっと、ファッション界の転換を駄目押ししたふうに描かれていれば、統一感のある面白さがあったかも・・・と思いますが。

 

 

 

 

小早川秋聲について。

東京ステーションギャラリーで小早川秋聲展を見ました。

 

実際に見る前、小早川秋聲は有名な《國之盾》と、どうやら他の明治期風俗画家の記憶がごっちゃになっていたみたいで・・・、実は《國之盾》しか知らなかった画家でした。

 

なので、統一イメージがなかったわけですが、見終わった後も、なんというか、統一イメージが出しにくい作家だなぁ、と思いました。

実際、文展のそれなりの画家だった(らしい)のですが、1995年頃の戦争美術再評価の高まり期まで忘れられた画家だったそうな。

なんというか、あんまり師弟関係から読み解けない。

 

ただ、展覧会は見応えがあり、面白かったです。しかしまあ、振り幅もすごい(笑)。

 

人物描写とか、着彩とか、どうかすると「下手なのか?」と思うこともありますが、これまたどうかするとピッタリはまって、ものすごく「いい」絵だったりして・・・、評価しにくい画家だったんだろうな…とも。

 

《國之盾》で知られるくらいだから従軍画家なんですけれども、なんというか、初期(といっても30代くらいだからそこそこ中年)の作品を見ていると、なるほど、この人は生来のジャーナリスティックな眼の持ち主なんだな〜という気がしました。

 

あまり関係ないかもしれませんが、谷口香嶠の後に山元春挙に師事したそうで、春挙といえば円山派らしいツマンナイ雪松図なんかも描いたりするんだけど、写真を山水画にいち早く取り入れた人でもあり、その鮮烈な影響があったのかなぁ、とも思います。

 

そして、この時代の日本画家にしては珍しく(そして公職もなさそうなのに)、明治末〜大正期にかけてものすごい広い範囲で海外遊学してるなー、と思ったら、比較的裕福な家系らしい。

だから、あんまり画壇のしがらみもなかったのかもしれませんねえ。

ものすごい自由な描写が楽しい紀行画は見もの。そして、偏見かもしれませんが、裕福だからか(笑)、作品によってはものすごく砂子づかいが繊細で緻密で綺麗なんですよ。

 

実際には思ったほど《国之盾》には心は動かなかったのですが、それ以外の戦争画は、情景画、ヒューマニズム、リアリスムそれぞれの観点で沁みる作品が多く…。

 

図録も買いましたが、やはり実物の再現には印刷では限界があり、ぜひ、実物をご覧あれ。

 

ウンベルト・エーコ『プラハの墓場』

2年前、自分がプラハへ行くことが決まった時に、偶然見つけて、テンションを上げるために買った本ですが…、その後しばらく放置。

最近になってようやく読みました。

 

結論から言って、プラハの街はあんまり関係ありません。(笑)

 

最初、構造が分かりにくく、一気に読むことをしなかったので(登場人物を覚えにくい)、かなりしんどかったのですが、腹を括って読み直し、なるべく集中して読むことにしてようやく理解できましたワ。

 

エーコの小説を全て読んだわけではないですが、珍しく現代に近いところを扱っていますが、舞台は19世紀末の、ヨーロッパ。

 

いつも思うんですが、ヨーロッパ小説は(特に19−20世紀初頭)、ヨーロッパの大陸史を知らないと、ほんと読みにくいだろうな〜と思います。

プラハ」も、そういった意味では非常に象徴的。

 

同時期に必要に駆られて原田マハの小説を渋々読んだのですが、エーコと同時に読んでいくと、ほぼ同時代が舞台であっても、前者がいかにヨーロッパを表層的にしか掬い取っていない小説かがよく分かります。

 

全く現代っ子のイタリア人がどう考えているかは知りませんが、おそらく、エーコのような「20世紀」の人にとって、「イタリア」人というのはいない、といわれていることが当てはまるような気がします。

思えば、『薔薇の名前』も中世が舞台ではありますが、同じ目線を感じますね。

「20世紀のイタリア」が生まれる前の、イタリア半島の構図を思い出してみると、伝統的な「フランス」対「ドイツ※現在のドイツではなく神聖ローマ帝国」とヴァティカンという3者構造の、近代目前の総決算、というところ。

よって、主人公の北イタリア人が、イタリア統一運動に向けた急進派の父を遠くに、旧体制派の祖父に押し込められつつ成長し、奇妙な立ち位置でそれぞれの勢力に関与し、現在(老年期)はパリに住みフランス政府に関わる(といいつつ、ドイツ※これはプロイセン新ドイツ、ロシアに関わる)、というような背景も、ものすごく現実的。

 

一方で、ミュシャや19世紀美術で時々知る機会があって、現代の私には理解不能な、この時代の近代なのか前近代なのかよくわからない神秘主義の横行、同時に生まれたての共和主義の危うさ、急成長したジャーナリズムの功罪、などが、とにかくどっと描かれています。

 

はっきりいって主人公は悪人なので、その行動に感情移入するような類の小説にはなっていませんが、それでも、エーコが描きたかったのは、別にご自分のアイデンティティへのノスタルジーではないのは明らか。

エーコの本職が小説家ではなく、やはり「知識人」たるゆえんでしょうかね。

 

はっきりいって、これは現代の物語なのです。

 

「メディア」が近代の紙(週刊誌)から現代のインターネット(電子媒体)に変わっても、その源を左右するのは人間なのですよ。

その源にいる人間が、たとえ、最終的な事件の結果に対する関心がなかろうと、公正でない企みをもっている時、容易に、事件の結果に関与しうる、ということを、読者は読み解くべきなんだろうな〜、と思います。

 

やはり、恐るべし、エーコ

 

 

 

 

ウンベルト・エーコ『プラハの墓場』

2年前、自分がプラハへ行くことが決まった時に、偶然見つけて、テンションを上げるために買った本ですが…、その後しばらく放置。

最近になってようやく読みました。

 

結論から言って、プラハの街はあんまり関係ありません。(笑)

 

最初、構造が分かりにくく、一気に読むことをしなかったので(登場人物を覚えにくい)、かなりしんどかったのですが、腹を括って読み直し、なるべく集中して読むことにしてようやく理解できましたワ。

 

エーコの小説を全て読んだわけではないですが、珍しく現代に近いところを扱っていますが、舞台は19世紀末の、ヨーロッパ。

 

いつも思うんですが、ヨーロッパ小説は(特に19−20世紀初頭)、ヨーロッパの大陸史を知らないと、ほんと読みにくいだろうな〜と思います。

プラハ」も、そういった意味では非常に象徴的。

 

同時期に必要に駆られて原田マハの小説を渋々読んだのですが、エーコと同時に読んでいくと、ほぼ同時代が舞台であっても、前者がいかにヨーロッパを表層的にしか掬い取っていない小説かがよく分かります。

 

全く現代っ子のイタリア人がどう考えているかは知りませんが、おそらく、エーコのような「20世紀」の人にとって、「イタリア」人というのはいない、といわれていることが当てはまるような気がします。

思えば、『薔薇の名前』も中世が舞台ではありますが、同じ目線を感じますね。

「20世紀のイタリア」が生まれる前の、イタリア半島の構図を思い出してみると、伝統的な「フランス」対「ドイツ※現在のドイツではなく神聖ローマ帝国」とヴァティカンという3者構造の、近代目前の総決算、というところ。

よって、主人公の北イタリア人が、イタリア統一運動に向けた急進派の父を遠くに、旧体制派の祖父に押し込められつつ成長し、奇妙な立ち位置でそれぞれの勢力に関与し、現在(老年期)はパリに住みフランス政府に関わる(といいつつ、ドイツ※これはプロイセン新ドイツ、ロシアに関わる)、というような背景も、ものすごく現実的。

 

一方で、ミュシャや19世紀美術で時々知る機会があって、現代の私には理解不能な、この時代の近代なのか前近代なのかよくわからない神秘主義の横行、同時に生まれたての共和主義の危うさ、急成長したジャーナリズムの功罪、などが、とにかくどっと描かれています。

 

はっきりいって主人公は悪人なので、その行動に感情移入するような類の小説にはなっていませんが、それでも、エーコが描きたかったのは、別にご自分のアイデンティティへのノスタルジーではないのは明らか。

エーコの本職が小説家ではなく、やはり「知識人」たるゆえんでしょうかね。

 

はっきりいって、これは現代の物語なのです。

 

「メディア」が近代の紙(週刊誌)から現代のインターネット(電子媒体)に変わっても、その源を左右するのは人間なのですよ。

その源にいる人間が、たとえ、最終的な事件の結果に対する関心がなかろうと、公正でない企みをもっている時、容易に、事件の結果に関与しうる、ということを、読者は読み解くべきなんだろうな〜、と思います。

 

やはり、恐るべし、エーコ

 

 

 

 

モーリス・ベジャール・バレエ団2021公演

コロナ禍、舞台に立つ仕事の人はいかに困難だろうなぁ、と思う日々。

バレエ公演は無論、海外のバレエ団を見ることもまだまだ先だろうな…、と思っていたところ。

 

偶然、モーリス・ベジャール・バレエ団の来日公演を知りました。公演から約2週間前の話。

 

丁度、10月10日までで終わってしまう、写真美術館での山城知佳子展を見に行くタイミングを測っていたので、かつ、全幕ものの「バレエ・フォー・ライフ」は昔ですが見たことがあるので、3演目ボレロ公演の方へ行ってきました。

 

さて。

 

ボレロのキャストが直前まで発表されなかったので、選択肢がなかったのですが、結果として、エリザベット・ロス様のメロディの日になりました。

 

ボレロの実見は3人目のダンサー、でも男性のメロディを実見したことがなかったので、どちらかというとジュリアン・ファブロー(呼び捨て)を見たかったなぁ…。

 

まず最初、ジル・ロマンの「人はいつでも夢想する」。

ジルの振り付けは「アリア」から2回目。

 

…結論からいって、ジルは私と合わないかも。

「アリア」もそうだったのですが、ジルがその振り付けで「何を」したいのかがわからない。

ベジャールと同じく、「音楽に振りを」と語っておられますが、ジルには構成が感じられない。

そのようなものを意識しておらず、むしろアンチ文脈の前衛派なのかも知れないが…。分かり合えるところがないので、なかなかにきつい1時間に。

 

ちなみに、すっかり世代がわりしていて相変わらずダンサーがよくわからないのだけれど、個人的にはルロイ・モクハトレという南アフリカ出身の男性ダンサーが良かったと思います。

 

小柄なため、ほかの演目では女性とのペアがかなり不利に見えましたが、「人は…」では男性同士のパドドゥがあり、その身体の柔らかさが中性的で、なんとも魅力的。

この人を生かす振り(演目)があればいいなぁ、と夢想(笑)。

 

一方、ベジャールの「ブレルとバルバラ」は、全く歌詞がわからないシャンソンではあるけれど、音楽と振り、構成から、ベジャールの歌手と音楽との解釈とリスペクトがわかるから面白い。

 

ギエム姐さんが引退した(先日、ダニール・シムキンがインタヴュアーを務めた姐さんの近影動画を見ました。興味深いです)昨今、私的に最後のミューズ・ロス様は、1997年にベジャール・バレエ入団で、意外とベジャールと共にした時間は短いのかもしれないけれど、ベジャールの晩年の作品には欠かせない女優性を感じるのだよなぁ…。

 

また再会できて、ほんと、夢のようです。

 

それにしても、3時間近い幕の全演目にロス様はご出演なされていて、お、お疲れが出ませんように…。

 

さて、トリの「ボレロ

ロス様のメロディは以前映像でも見たことがあって、なんというか、あまりにも中性的・無感情的でかえって神々しい様が実はあんまり…と思ったことがあったのですが、東京バレエではなく多国籍からなるリズムとの響き合いを楽しみにしていました。

 

しかし…。

今回はライティングがあまり上手くなかったのかな…。

冒頭が手首のみ照らす、というのがお決まりのパターンですが、それにしても全体がうっすら見える明るさで、劇的度合いが減少。

なんだかね。

 

そしてね。やはりロス様のメロディは淡々持ち味で、かつ、今まで実見してきたダンサーが長髪だったのに対し、短髪のロス様には、盛り上がり時の激情の演出性が薄く…。

「動」の楽しみとしては、7月に見た上野水香さんの方があって、また、同カンパニーのリズムたちとの響き合いもあまり感じられなく。

 

ロス様の淡々具合は超人的、その個性としては興味深いけど、心動く度合いは今回ちょっと少なく、それが残念。

 

…とまあ、こんな感じの感想を書いていますが、とにかく、今、舞台を見られたことは本当に感動的。

感謝してマウス。

 

 

 

 

 

「マイヤリング」を観る。

マクミランの「マイヤリング」がどういうわけかAmazon検索上位にきていたので、ムハメドフを超えるものはないだろうな…と思ったのですが、エドワード・ワトソン主演版を買いました。

ちなみに、ロイヤルは男性プリンシパルが今ひとつ、有名人がいない、というか知らない。ワトソンも初見。

概ね、ストーリは忘れていましたが、フランツ・ヨーゼフ1世周辺の事情にわけあって詳しいので、なんとかなりました。

しかし、登場の瞬間からルドルフ皇太子は不幸と苦悩に満ち溢れているので、いったい、この2時間をどう見せてくれるのか気が重くなりましたが、果たして、一貫して気が重いステージだった。

いつか実見してみたい演目上位にあるものの、これほど、見るのがしんどい演目はありません。

しかしまあ、心理面はひたすら苦悩と冷厳と狂気と世紀末なので、なんですが、とにかく、マクミラン真骨頂ともいうべき複雑なリフトはかなりの見応え。

心躍る「素敵」感は皆無ですが、男女とも、とにかくリフトがすごいわ…。

 

…と、こんなに気の重い演目なのに、なんと、2本見比べやってしまいましたよ…。

比較になるのはムハメドフ主演の1994年上演の映像。

 

ハメドフははっきりいって、むしろ皇帝然としているので(イワン雷帝とかね)、ダメな坊ちゃん皇太子としてはワトソン君の方がリアリティあります(笑)。

身体的技巧より文学的な振りが「マイヤリング」の持ち味なので、この点はワトソン皇太子優位。

 

ハメドフ版は初見の時、レスリー・コリアのラリシュ夫人がイマイチおばさんぽくて(髪型のせいもあり)馴染めなかったのだけれど、自分も歳をとったせいか、若い愛人を繋ぎ止めようとする悲哀感はそれなりにわかるように。

 

しかしなぁ、やっぱりマリー・ヴェツェラはヴィヴィアンナ・デュランテを超えるのはなかなか難しい。ワトソン版のマーラー・ガレアッツイは名前から想像するに同じイタリア系と思われるけど、ちょっとイモっぽい。

もちろん、実際のマリーもどちらかというとお芋さんなんだけど…、登場した時(実は2回目なのだけど)の劇的さが…、減少。

 

全体的にはスターが多いのはムハメドフ版ですが(廷臣役にアダム・クーパーもいる。あと、クレジットがないけど、神父役はマクミランでは…?)、ワトソン版の方が、配役全体のバランスはいい。

 

女性の重要な役が多くて、実際、女性の主役は誰かがわかりにくい「マイヤリンク」ですが、今まではお飾りだと思っていたステファニー王女役も、実際、初夜のリフトがものすごくって、これもなかなか実力がないとできない役どころなのが、今回わかりました。

 

しかし実見するには…、今後の配役が悩ましい演目ですね。

且つ、観て一ミリも心躍ることのない演目だし…。